吉備津彦神社(記事未作成、写真は2010年頃撮影したもの)






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (13)






今回は吉備国のお話。


ここ十数年は吉備国にはご縁がないようでして。

行くと決めてても直前に急用が入ったり、その他の理由で行けなくなったり。

5年ほど前も石上布都魂神社だけを参拝し終えた後、車の故障…。
車は岡山から奈良までレッカーで牽引。


一時は毎年のように向かってたのに…。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
(10) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 (追加修正)
(11) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~4
(12) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~5

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築山古墳の露出した石棺。*画像はWikiより



■ 備前国の築山古墳

岡山県瀬戸内市の築山古墳(未参拝)も「阿蘇ピンク石」製の石棺として知られます。

岡山市からは東方10km程度、瀬戸内海からは6~7kmほど内陸でしょうか。ほとんど瀬戸内海に面している牛窓神社(記事未作成)が建っています。

岡山市内には吉備津彦神社(備前国一ノ宮)、吉備津神社(備中国一ノ宮)が隣り合わせの如く鎮座します(いずれも記事未作成)。そこから東方へ10kmほどでしょうか。

また刀鍛冶で知られる「長船町」。「タタラ吹き」に使用する「クヌギ」が多く自生する地であったとか。もちろん備州は日本有数の鉄の産地。

◎築山古墳
*全長82mの前方後円墳(二重の周濠有り)
*竪穴式石室
*石棺は露出
「刳抜式」の「家型石棺」、「阿蘇ピンク石」製
*築造は5世紀後半~6世紀初頭

この時期の規模や形状(前方後円墳、二重の周濠)からみて、ヤマト王権と関係を持つ首長級の墳墓とみて間違いないかと思います。

ということは「吉備氏」以外に考えようもありません。


築山古墳 *画像はWikiより



■ 吉備氏とは


崇神天皇十年、各地に四道将軍が派遣されました。翌十一年に地方の敵を帰順させ凱旋帰国したとされます。
*北陸 → 大彦命

*東海 → 武渟川別命

*西道 → 吉備津彦命

*丹波 → 丹波道主命

これはヤマト王権が支配圏を拡大するために行ったとみられ、いずれもヤマト王権にとっては重要と捉えられた地。

うち「西道」に派遣された第7代孝霊天皇皇子である吉備津彦命が、実際に向かったとされるのが「吉備」。

もちろん狙いは、ヤマト王権にとって致命的に欠乏していた「鉄」の確保。四人の将軍ともに向かった先は「鉄」の確保ではないかと考えていますが。

この吉備津彦命による吉備平定が「桃太郎物語」のモデルとなったとみられ、それまでこの地域を支配していたのが温羅(ウラ)とされます(→ 温羅神社)。

温羅は百済王子であり、吉備に製鉄技術を伝えたと考えられています。また出雲族だったとも考えています。つまり出雲族の勢力圏が吉備まで及んでいたのではないかと。

以上は紀の記述。記の方は異なります。
孝霊天皇の御宇に弟の稚武彦とともに派遣されたとしています。崇神天皇の段には登場しません。

他に以下の吉備に関連すると思われる名が記紀等にみられます。
*大吉備諸進命(オオキビモロススメノミコト) … 孝霊天皇の兄
*稚武彦命(孝霊天皇皇子、吉備臣の遠祖)
*吉備武彦 … 「新撰姓氏録」に稚武彦の子または孫とする
*大吉備武比売 … 吉備武彦(吉備臣建日子)の妹、記では日本武尊(倭建命)の妃の一人とする
*吉備穴戸武媛 … 吉備武彦の娘、紀では日本武尊の妃の一人とする、「大吉備武比売=吉備穴戸武媛」か


歌川国芳「日本百将伝」より吉備津彦の想像図
*画像はWikiより



◎吉備王国

第5回目の記事で紹介した造山古墳は、俗に「吉備王国」などと言われる象徴的な古墳。

当時ヤマト王権は「河内王朝」として百舌鳥・古市古墳群に大規模な古墳が数多築かれましたが、造山古墳はそれに匹敵する全国第4位の大きさ。
大和国内にはこれほどの大きさの古墳は存在しません。

弥生時代から始まったという製塩、古墳時代から始まったという製鉄(弥生時代からとする説も)を糧に、どんどん強大化していき、ヤマト王権と拮抗するほどの勢力となりました。

「吉備国」について触れておかねばならないことがあります。
古くは「吉備国」と称されていたものの、令制国制度では「備前国」「備中国」「備後国」「美作(みまさか)国」に分割されます。その後も「吉備」という名は慣用的に用いられ、「美作国」を除く三国、または「備後国」のうち広島県にかかる地域を除く三国の総称に。


吉備津彦命の後、諸派に分かれます。
*「吉備上道臣」の祖 → 吉備津彦命(兄)
*「吉備下道臣」「笠臣」の祖 → 稚武彦命(弟)

特に「上道臣」「下道臣」に権力が集中していたようです。その後、「上道臣」は衰退し「下道臣」に一本化されていきます。造山古墳も「下道臣」のものとされます。

吉備国造も五つの小国造(上道・下道・三野・加夜・笠)に細分化されていきます。


備中国 中山茶臼山古墳(吉備津彦命の治定墓)



◎「吉備王国」の古代概史

「吉備王国」が強大化していく大まかな歴史を、ここで一旦まとめておきます。

*2世紀初め~3世紀中頃
巨大勢力があったと考えられ、楯築弥生墳丘墓から独自の「特殊器台」「特殊壺」が出土している

*280年頃(安本美展氏の説)
神武東征時に行館「吉備高島宮」に8年間滞在する(個人的には3世紀初頭~前半頃と考える)

*4世紀初頭(?)
吉備津彦命による百済王子「温羅」征討
以降、「吉備王国」は吉備津彦命と稚武彦命の裔の支配地となる

*4世紀前半(?)
吉備穴戸武媛(吉備武彦の娘)が日本武尊の妃となる

*4世紀前半(?)
吉備武彦が日本武尊東征の将軍として帯同

*5世紀初め頃
「吉備王国」内に前方後円墳が姿を消す
5世紀後半には再び前方後円墳が築かれだす

おそらくヤマト王権と拮抗する、或いは凌ぐほどの強大な勢力となっていたことのあらわれではないかと考えます。





今回はここまで。

甚だ中途半端ではありますが、長くなってきましたので。次回は「吉備王国」の続きとなります。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。