甲山古墳の石室内部 *画像はWikiより






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (11)






重大な欠落が判明し、大慌てで追加修正をUPしたのが前回の記事

再び「阿蘇ピンク石」製の石棺例に戻ります。

大和国にはあともう1基ありますが、そちらを後回しにして今回は近江国へ移ります。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
(10) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 (追加修正)

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円山古墳の石室内部 *画像はWikiより



■ 近江国野州郡の円山古墳・甲山古墳

同じく畿内でも少々離れた近江国野州郡にも、2体の「阿蘇ピンク石」製の石棺が出土しています。

琵琶湖の南東部に注ぐ「野州川」の河口近く。近接した2基の古墳。「大岩山古墳群」(残存8基、3世紀後半~7世紀)のうちの2基。

古くから栄えた地で、「野州川」上流は甲賀市。さらにその先は伊賀国へ。元伊勢が点在する地域でも。

◎円山古墳
径28mの円墳
横穴式石室
*「阿蘇ピンク石」製「刳抜式」の「家型石棺」
*「二上山凝灰岩」製「組合式」の「家型石棺」(追葬石棺とみられる)
6世紀初頭築造

◎甲山古墳(かぶとやまこふん)
径30mの円墳
横穴式石室
「阿蘇ピンク石」製「刳抜式」の「家型石棺」
6世紀前半(または中葉)築造

築造時期が連続、同規模であること、またこの時期のものとしては大きく副葬品も豪華であることから、当地を支配した首長級の古墳とみられます。

当地は近淡海安国造(ちかつあふみのやすのくにのみやつこ)一族が支配した地域とされます。

これとは別に近江毛野(オウミノケナ)の墳墓ではないかとする説も。


甲山古墳 *画像はWikiより


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■ 近淡海安国造と息長氏

円山古墳と甲山古墳の被葬者と考えられるのが近淡海安国造一族。

記には日子坐王と息長水依比売命との間に生まれた水之穂真若王を祖とする氏族。日子坐王三世孫、または天津彦根命の裔である大多牟坂王が初代近淡海安国造。ここでも息長氏が関わってきました。

國學院大學 「古典文化学」事業の氏族データベースでは、━━同地域の山林資源やそれを背景に生産された須恵器を、野洲川などの水運を利用して供給することで、近淡海之安直は王権に奉仕していたことが指摘される━━と述べています。また同じ野州郡内の御上神社を奉斎した氏族であるとしています。

第7回目の記事でも記したように「阿蘇ピンク石」製の石棺には、息長氏が関わっている可能性を考えています。

そして水運はやはり紀氏が携わっていたのでしょうか。

「近淡海安国造」は「淡海国造」と同祖とされています。「淡海国造」は記によると和邇氏(小野氏・春日氏・額田国造などに分派)と同系統とあります。
前回の記事で触れた野神古墳はこの和邇氏系の墳墓なのでしょうか。


「野州川」と、御上神社の御神体山である「御上山」(三上山)。* 画像はWikiより


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■ 近江毛野と継体天皇

円山古墳と甲山古墳の被葬者の別説として考えられるのが近江毛野(オウミノケナ)。

武内宿禰の後裔。子の波多八代宿禰が波多臣や近江氏等の祖とされています。

継体天皇二十一年(527年)のこと、「磐井の乱」が起こりました。

この反乱の意味するところは大きく、筑紫政権が畿内政権を離れて独自の政権を打ち立てようとしたとする説も。諸説あるものの、継体天皇にとっては大変な危機が訪れたと思われます。

この反乱は勢力を伸ばした新羅が加羅を奪取、それを奪い返すためにヤマト王権は任那へ軍を派遣しようとするも、新羅が筑紫の磐井に贈賄で買収、その磐井がヤマト王権の軍を阻んだことにより戦争が勃発したというもの。

任那に向けて派遣されたのは近江毛野(オウミノケナ)。6万の軍を率いて出発したと紀には記されます。

筑紫君磐井は火国(肥前・肥後国)、豊国(豊前・豊後国)と九州北部を制圧、朝鮮半島と倭国との海路を制しました。近江毛野の進軍を阻まれたヤマト王権は、物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)を将軍に任命し、筑紫以西の統治を付けて送り込みました。激しい交戦の末、遂に筑紫君磐井を討ったと記されます。

近江毛野は磐井の乱後、任那の「安羅」に赴任しています。
紀には毛野が放漫に振る舞う人物であると記されています。継体天皇からの帰還命令にも従わず、2度目の命令でようやく帰還しようとするも、その帰途に対馬国で病死、近江国に葬られたとあります。

真の継体天皇陵とみられる今城塚古墳も「阿蘇ピンク石」製の石棺。この「磐井の乱」に関わった人物たちの墓も「阿蘇ピンク石」製の石棺である可能性もあります。




今回はここまで。

次回はいよいよ「阿蘇ピンク石」製の石棺が、「大王の棺」と呼ばれるきっかけとなった今城塚古墳に触れていくことにします。


筑紫君磐井が眠るとされる「岩戸山古墳」。*フリー画像より



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。