河内国の長持山古墳の石棺。向かって左が1号石棺、右が2号石棺。*画像はWikiより






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (5)






シリーズ記事も4回、5回と続けると
見向きもされなくなるものでして(笑)

スピリチュアルやらとか言う低俗な輩どもからのアクセスばかり。

これほど拒否ってるのに。



…粛々と続けて参ります。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1

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今回も「阿蘇ピンク石」ではなく、「阿蘇溶結凝灰岩」の石棺例を見ていきます。



■ 河内国の「阿蘇溶結凝灰岩」の石棺

河内国では2箇所で「阿蘇溶結凝灰岩」の石棺が発見されています。
唐櫃山古墳(からとやまこふん)と長持山古墳(ともに未参拝)。ともに允恭天皇陵の南西部に近接、陪塚とみられています。

2箇所とも藤井寺市。いわゆる「中河内」と呼ばれる内陸部。
ところが現在の大阪平野は、弥生時代までは「河内湖」と称されるラグーンでした(→ 下部写真参照)。古墳時代に突入したとて劇的な変化は無かったと思われます。古市古墳群は海岸に近いところに築かれたと言っても過言ではないかと思います。

*唐櫃山古墳
全長53mの帆立貝形古墳。道路工事により大半が消失。
「刳抜式」の「家型石棺」、「阿蘇溶結凝灰岩」製、5世紀後半築造。

*長持山古墳
径40mの円墳。完全消失。
石棺は2基。ともに「刳抜式」の「家型石棺」、1号石棺・2号石棺とが有り、1号石棺(「阿蘇溶結凝灰岩」製)は蓋の屋根の傾斜が強く、舟底の形をした身からなる(→ 冒頭写真・下部写真参照)。2号石棺は「阿蘇ピンク石」製。
5世紀築造。石棺は府立道明寺小学校に展示。


かつて存在した「大阪歴史博物館」に掲示されていた、弥生時代の大阪の様子を表したパネル(現在所有者の梶無神社宮司から許可を頂いています)。両古墳ともに「国府」の近くに築造。
長持山古墳の石棺が「大阪府立近つ飛鳥博物館」に展示されていた時の画像 *画像はWikiより



■ 備前国の「阿蘇溶結凝灰岩」の石棺

備中国津高郡(現在の岡山市北区)の造山古墳も「阿蘇溶結凝灰岩」が使われた石棺。

全長350mの前方後円墳で、これは全国第4位の規模。5世紀前半(資料により5世紀後半)の築造と推定されています。

前方部上には荒神社が鎮座。社殿横に石棺の身が、裏手には蓋が据えられているとのこと。「刳抜式石棺」であり、「組合式石棺」の「長持型石棺」には似せているようです。また形態も肥後国の鴨籠古墳によく似ているとのこと。

「足守川」西岸、河口からは10kmほどの微丘陵。東岸には吉備津神社・吉備津彦神社(ともに記事未作成)が鎮座、上流には桃太郎物語の鬼のモデルとなった「温羅遺跡」も。どうやらこの辺り一帯が、いわゆる「吉備王国」の中心地だったようです。

陪塚は全6基が確認されています。そのうちの一基、千足古墳(全長74mの帆立貝形古墳)は四壁に沿って「石障」と呼ばれる板石を並べた石室。

これは肥後国にみられる特徴的な構造。宇土半島産の「天草砂岩」が使われたもの。また描かれる「直弧紋」(下部に写真掲示)と呼ばれる幾何学文様は、肥後国の豪族たちが好んで用いた装飾紋様。

「石障」「直弧紋」といった新しいキーワードが登場。こちらも「阿蘇石」の謎を紐解く上で重要なものとなります。


大和国廣瀬郡(現在の北葛城郡広陵町)の新山古墳から出土した「直弧紋鏡」。*画像はWikiより



■ 紀伊国の「阿蘇溶結凝灰岩」の石棺

「紀ノ川」河口、海岸からは5㎞ほどに築かれた大谷古墳(未参拝)。こちらも「阿蘇溶結凝灰岩」製の石棺として知られます。

和泉国と紀伊国を境にする「和泉山脈」の南麓から派出した尾根の突端を利用して築造。平野部を見下ろすようなところに立地しています。そこには古代の港「平井津」の前身があったとか。

石棺は「阿蘇溶結凝灰岩」製で、「組合式」の「家型石棺」。

「馬冑(ばちゅう)」と「馬甲」が完全な姿で発見された唯一の古墳と知られます。東アジア初の出土。

韓国釜山で同様のものが出土、また高句麗の古墳壁画にも描かれ、後に大量に発見されています。
さらに唐草文の馬具、龍文の帯飾りなど、これらは渡来文化の影響を受けたもの。そして武具も多く出土していることから、被葬者は武人であったともみられます。


大谷古墳より出土した「馬冑」。*画像はWikiより



■ 大谷古墳と紀氏

この地で、この遺物となれば、それはもう被葬者は「紀氏」以外には考えられません。

紀記やその他文献、神社伝承等から、朧気ながらも全体像が比較的描き易い氏族。もちろん深部など謎も多くあるのですが。

「紀氏」は「海を渡った棺」のテーマに多いに関わる氏族。また4世紀頃からの日本の歴史は、「紀氏」抜きには語られないほどの影響力を持った氏族。

神武東征、倭姫命の元伊勢変遷、神功皇后の三韓征伐、武内宿禰の躍進…
これらは紀氏の大活躍により成し得たと言えばお分かり頂けるでしょうか(他にもまだまだありますが最小限に抑えました)。

ここではざっくりと概要だけを見ていきます。


◎2系統存在する
*「紀直」 (紀国造)
天道根命(神武東征を先導)を始祖とする。
「紀ノ川」南側。
日前神宮を奉斎。
一族は岩橋千塚古墳群に眠る。

*「紀朝臣」
紀角宿禰(武内宿禰の子)を始祖とする。
「紀ノ川」北側~泉南まで。
雄略・顕宗・欽明の時に朝鮮半島で軍事・外交に活躍
大谷古墳等に眠る。


武内宿禰の母である影媛は紀国造家。混同はできないものの同族という見方もできるかと思います。

大谷古墳の被葬者は紀小弓(雄略朝)、紀大磐(顕宗朝)、紀男麻呂(欽明朝)辺りでしょうか。紀記に朝鮮半島の軍事・外交に活躍したと記されます。
紀国造家の始祖である天道根命が武将。その流れを紀朝臣が引き継いだものと思われます。


武内宿禰の産湯を汲んだと伝わる井戸がある紀伊国名草郡(現在の和歌山市)の武内神社




さて…

まだこのテーマ記事は序盤戦ですが、早くも明らかにしておきます。

紀氏が石棺の運搬に関わっていたと考えられます。大谷古墳の存在が無くとも紀氏以外には考えられないのですが。

そして武内宿禰の出生とされる地は肥後国とするのが有力。ところが上述のように紀伊国名草郡にも伝承地が存在します。母のいる紀伊国で生まれ、すぐに肥後国に渡った可能性も。
肥後国と紀伊国とを繋ぐルートの一つがここで見えます。


紀氏の海上での活躍は、紀記に表れる雄略~欽明朝だけではなく、遥か古代からのものと考えています。

それを前提にすると、肥国~畿内までの古代史をするすると紐解くことができます。

あまりに壮大なスケールであるため、どこからどうやって記していこうか悩ましいところですが。


現在は体調面、その他の問題で敬神活動がほとんどできず、引きこもり状態。
目標としていたことが叶わず修正を余儀なくされる事態となりました。

代わりと言ってはなんですが…
これまでの自身の中間成果として、このテーマ記事をやり遂げたいと考えています。

最後までお付きあい頂ける方がおられましたらさいわいです。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。