(宇土市沖合いの「風流島(たはれじま)」) *画像はWikiより






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (3)






前回の記事までで、「阿蘇ピンク石」についてごく簡単な概要を記しておきました。

いよいよ核心部分へと…の前に
2004年に行われた「大王のひつぎ航海実験」について触れておきます。


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正

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■ 「大王のひつぎ航海実験」(2004年~)

ネット検索をかけていると多くの資料が出てきます。それらから抽出していきます。


◎実行委員会構成団体
石棺文化研究会/(社)熊本青年塾/読売新聞社/宇土市

◎航海協力機関・団体
独立行政法人 水産大学校/九州・沖縄水中考古学協会


実際に音頭を取って動いたのは以上の各団体。もちろん採石・加工、造船・航海、修羅の製作・運搬なども。他にも各寄港先でのイベント等、想像し得るだけでも相当数の人々を巻き込んで行われたようです。


◎2004年 春~
石棺の原石探し
古代船の製作着手

◎2004年 7/24
石棺・修羅完成 引き出しセレモニー(大歳神社)

◎2004年 10/22
「古代船進水式」(志賀島)

◎2004年 10/31
「古代船お披露目式」(宇土マリーナ)

◎2005年 7/24
「宇土マリーナ」出航

◎2005年 7/24~
有明海・玄界灘・関門海峡・瀬戸内海を経由し22箇所に寄港

◎2005年 8/26
「大阪南港」に到着

◎2005年 8/28
今城塚古墳(大阪府高槻市)にて、「千人で運ぶ大王の石棺」イベントが開催


◎棺の原石は20t。掘り出す作業におよそ3ヶ月かかったとのこと。約2ヶ月かけて長さ2.6m、総重量6.7tの棺に加工された。

◎石棺のモデルとなったのは今城塚古墳のものであるが、石片であるため、近江国の円山古墳と甲山古墳のものも参考にされた。

◎古代船は「海王」と名付けられた。
試行錯誤を繰り返し、西都原古墳群170号墳出土 船型埴輪がモデルとなった(下部に写真掲出)。

◎古代船の漕ぎ手は15人程度。石棺はイカダの「台船」に載せられ、それを古代船が引くという方法を選択。当時もおおよそこのような方法であったとされる。

◎荒天に備えた予備日を除いた実質の航海日は23日間であった。

◎最終的に総航海距離は1008kmとなった。

◎修羅(陸上で運ぶ木ゾリ)のモデルとなったのは、河内国志紀郡の三ツ塚古墳(藤井寺市)出土のもの(下部に写真掲出)。
使用されたアラカシの木は、宇土半島中を探し回ったとのこと。


(西都原古墳群170号墳出土 船型埴輪)
(道明寺天満宮所蔵の三ツ塚古墳出土の「修羅」)




■ 航海実験以下のことが判明しています。

◎古代船は想定以上に風と波に弱く、石棺台船を引く航海はかなり困難なものだった。

◎推定復元した石棺台船は搬送力があり、当時のものに近いことが証明された。

◎石棺台船を引いた時の海王の速度2.5~2ノット(時速約4.6~3.7キロ)から試算し、荒天なども考慮すると古代なら少なくとも50日はかかった。

◎その他あらゆる情報をネット等から抽出したものを上げておきます。
*最近の研究では、石棺を幅1.9mの修羅(三ツ塚古墳出土のもの)で運ぶには、4m以上の道幅が必用。
*修羅で運ぶには150人ほどの人力が必用。修羅そのものが3.2tもある(三ツ塚古墳出土のもの)。



■ 寄港と交流

◎関西大学教授 繭田香融氏は、「古代海上交通と紀伊の水軍」という書において以下のように述べています。

━━(三世紀から四世紀初めにかけて)その時代の陸上交通は、樹木の繁茂、河川の氾濫、野獣・毒蛇の棲息などの自然条件によって阻害されていたばかりでなく、道路の開発や橋・渡しの設備も十分でなかったし、さらに「魏志倭人伝」に物語れたような小国の分立という政治的条件が、これをいっそう困難なものとしていた。したがって、人物の移動や物資の流通も、多くのばあい、海上もしくは河川を利用する水運によらねばならなかったであろう━━

◎「阿蘇石」石棺の研究の第一人者である高木恭二氏は、「石棺の移動は何を物語るか」という書において以下のように述べています。

━━西九州の有明海沿岸から東シナ海・玄界灘を通って瀬戸内海に入り、そして畿内まではかなりの距離がある。その距離を石棺という重量物を運ぶには海上輸送以外には考えられない。律令期における官物輸送が、大宰府から都まで約三十日かかり、それより長い距離でしかも二、三百年も前の時代において石棺を海上輸送するにはやや多めに見積もって四十日ぐらいはかかったであろう━━

氏はさらに言及しています。

━━古代の海上輸送においては、夜間の陽が出ていないときに航行したとは考えられない。そこには、当然泊りによって、しかも海岸にそって航行するいわゆる地乗り航法がとられたであろうから、船は必ず港に寄港したり、停泊したであろう。そうなれば当然、泊りや停泊地での水や食糧の調達が行われたであろうし、そこに人々の交流が必然的に生まれたものと思われる。単純に計算すれば、三、四〇カ所の地域と西九州の地域の人々との友好的な交流が生まれたのは当然のことで、そこに婚姻や養子等の、同族関係が生まれたとしても不思議ではない。そして、寄港地に近い海が見える丘の上に古墳が築かれ、そこに西九州地域と同族関係を結んだ人が葬られ、そこに石棺が使われたのではなかろうか。石棺が移動するという過去の出来事を調べることによって、古墳時代における地方と畿内との文化交流がいかに活発であり身近であったかがよくわかる。このような個々の現象を詳細に検討することが、古代社会の復元に近づく一歩となるのではなかろうか━━



…ということです。

もちろん既に何らかの交流があったから、採石や石棺製造に始まり、航海、寄港までが可能であったわけで。

「阿蘇ピンク石」だけでなく、「阿蘇溶結凝灰岩」製の石棺が幾度となく肥国から畿内へ運ばれました。それぞれの交流は一気に深まったことが想像されます。



━━個々の現象を詳細に検討することが、古代社会の復元に近づく一歩となる━━

次回よりそこに踏み込んでいきます。


(島原湾) *画像はWikiより


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。