☆ 今城塚古墳 (継体天皇推定墓)



摂津国島上郡
大阪府高槻市郡家新町48-8
(住所は「今城塚古墳公園」内、「今城塚古代歴史館」のもの)(P完備)



継体天皇の真の墓と有力視されている古墳。

宮内庁の治定墓は「繼體天皇 三嶋藍野陵」(後ほど記事UPします)。おそらく治定間違いであろうと。そちらは継体天皇の曽祖父 意富富杼王(オオホドノオホキミ)の墓とする説も。

継体天皇についてのごく簡単な概略を。
◎ 第26代天皇 (在位507~531年)
◎ 表記は紀「男大迹王(ヲホドノオホキミ)」、記「袁本杼命(オホドノミコト)」
◎ 第15代応神天皇の血を引くが五世孫、紀では越前国、記では近江国を支配していたとされる大王
◎ 第25代武烈天皇には後継ぎが無く擁立される
◎ 政権交代説も有り、現在の皇室の始まりという考えも


ざっくばらんにぶちまけると、五世孫というのはもう皇族ですらない!
現在で言うと「江戸時代にはうちの先祖が天皇で…」というレベル。本人にも皇族という感覚などまったく無かったと思います。

なぜ五世孫が擁立される事態に陥ったのか、直接の原因は先代の武烈天皇に後継ぎがいなかったため。間接的な原因は、第21代雄略天皇が有力な皇族を次々と粛清したため。その影響がこの時にまで及びました。

仕方なく、とんでもなく血縁の薄い継体天皇が擁立されたのです。

ところが政権交代説が存在します。当ブログでもこの説を。

◎ そもそも五世孫というのは記紀で示された系譜ではなく他書から引いたもの。「釈日本紀」が引く「上宮記」逸文からの孫引き(紀の系図一巻は消失)。しかも「上宮記曰一伝」とあくまでも一説という記し方をしている。
◎ 即位してから19年間、大和に入っていない。これは政権交代に対する反対勢力があったため入ろうにも入られなかったから。大和に宮を営んだのは晩年のわずか5年間のみ。
「樟葉宮」(河内国交野郡)→「筒城宮」(山城国綴喜郡)→「弟国宮」(山城国乙訓郡)→「磐余玉穂宮」(大和国十市郡)
◎多くの有力者たちから何度も即位を説得されるも悉く拒否し、最終的にはやむなく受け入れている。この記述が疑わしく創作的である。
◎「神」「応」「継」などが名前の付く天皇は政権交代により即位した。つまり神武天皇、崇神天皇、応神天皇(神功皇后)、継体天皇と。

継体天皇についてはいろんな説が出され興味の尽きないところ。


今城塚古墳が真の継体天皇陵とされ、宮内庁治定墓である「三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)」が治定間違いとされる理由をいくつか。

◎ 「三嶋藍野陵」で出土した埴輪から、継体天皇の時代より100年ほど古いことが判明。これが最大の治定違いとされる決定的な理由。
◎ これに対して「今城塚古墳」は、出土品から継体天皇と年代がぴったりと合う。
◎ 「延喜式」諸陵寮に所在は「摂津国島上郡」とある。「三嶋藍野陵」は「摂津国島下郡」に属するが、「今城塚古墳」は「摂津国島上郡」に属する。


99%くらいの確率で治定間違いなのでしょうが、「今城塚古墳」が真の継体天皇陵とされる理由をいくつか。

◎ 全長190mの前方後円墳。「三嶋藍野陵」の全長226m(全国第21位)には及ばないものの、規模としては申し分のないもの。6世紀前半の古墳としては全国最大規模。周濠は内濠と外濠とを有する。
◎ 古墳形状や出土遺物から6世紀前半と考えられ、継体天皇の時代と合致。
◎ その出土した埴輪があまりに大量。「埴輪祭祀区」と称され、東西62~65m幅6mと日本最大の規模。家型15体、人型18体など計113体以上(現地案内板は200体以上としている)。これとは別に円筒埴輪は228体。


現地では世界遺産登録に向けて復元されています。御陵に治定されておらず、そして不思議と「陵墓参考地」に治定することすら宮内庁は拒否。

おかげで発掘調査も、復元も、墳丘に登拝することすら可能。古墳の内堤の中で走り回ったり、弁当を広げたり、野球をしている者も(本来は禁止)。

宮内庁が古代研究と国民のために、敢えて治定しない意向を取ったのかも…との思いも。


後円部の北東方向から、後方部の北西方向を。

北側から全体を。

後円部の南東方向から。

後方部の隅を北側から。

南側「造出」を南東方向から。

写真中央が南側「造出」。内堤との周濠跡を。

以下3枚、「埴輪祭祀区」の写真を。



登拝を始めます。登拝口はいくつか有り、比較的どこからでも登ることができます。

後円部頂付近と思われる場所。崩れて平らになってしまっています。

後方部の頂付近と思われる場所。こちらも崩壊しています。

後方部の隅、北側を。