(大和国十市郡の兜塚古墳)







◆ 「阿蘇ピンク石」 
~海を渡った棺~ (1)





時は5~6世紀、
今から1500~1600年前のこと。

古墳に用いられる石棺が、
遙々と瀬戸内海を渡っていました。


熊本県宇土市(うとし)で産出された「阿蘇ピンク石」が、およそ35tもの石棺に加工され、遥々瀬戸内海を航海し、畿内の多くの古墳に用いられました。

なんとも壮大なスケール!
なんとも壮大なロマン!


(西都原古墳群170号墳出土 船型埴輪)



およそ20~30年ほど前に、相次いで「阿蘇ピンク石」が使われた石棺が判明。

なかでも真の継体天皇陵とされる今城塚古墳での発見が契機となったように思います。
そして全国第4位の規模(350m)を誇る、備前国の造山古墳(未参拝)で確認されたことも。

考古学者、研究者、ファンたちの間に衝撃のニュースが飛び込みました。ま…私もその一人でしたが。



2023年2月までに、大和国内の関連史跡をすべて巡り終えました。

既に多くの学者や研究者たちの手により、いろんなことが解明され、論じられてきています。

このテーマ記事においてはそれらをありがたく拝受しつつ、まだご存知無い方々に対しても平易にまとめて紹介していきたいと思います。

どれほどのロマン溢れるものであったのか、それを感じて頂き、さらに古代史への興味を深めて頂くことができたならさいわいに思います。



(摂津国島上郡 今城塚古墳)


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■ 「阿蘇ピンク石」のロマン

古代史へのロマンを感じる時というのは、
*立派な建造物・加工物を目にしたとき
*古代人の思いや心を享受できたとき
ほとんどがこの2点に絞られるのではないかと思います。

石の加工物(磐座・神籬等)以外に人工建造物や加工物に関心が薄い私にとっては、古代人の思いや心が最大の関心の的。

そんな「思い」や「心」をより多く伝えられたらと思います。もちろんそういったものは主観となるのですが。



およそこのような感じ。

◎用材の切り出し … 3ヶ月
◎石棺製作(荒仕上まで) … 2ヶ月
◎航海 … 1ヶ月(約800km、陸上を含めると1000km以上)
◎石棺仕上げ・河川の遡上・修羅曳き … (不明)

なぜこのように期間が分かるのかというと、このロマンの虜になった人々が、用材切り出し~航海終了までの再現実験を行ったから。


これは考古学や古代史、海事史の研究者たちが集まった「石棺文化研究会」を主体に、
熊本青年塾(宇土市の地域おこし団体)、宇土市、読売新聞社が参画した「大王のひつぎ実験航海実行委員会」によるもの。

各種機関、団体の協力を得て2004年に行われた壮大なプロジェクト。

各寄港所でもイベントや歓迎会が盛大に行われていた記憶が鮮明に残っています。


当時も同じだったでしょう。

権力の大きさを誇示していたのでしょうし、寄港所では盛大なおもてなしが行われていたのでしょう。

また葬送儀礼の一環であり、つまり祭祀でもあり、国家をあげてのイベントでもありました。


偉大なる天皇(当時はまだ「大王」)、またはそれに準じるクラスの葬送儀礼。盛大に行われるのは分かりますが…。

比較的近くに二上山凝灰岩、兵庫県たつの市の凝灰岩で良質なものがあるのにもかかわらず…。畿内の古墳の石棺はその2ヶ所から採石された凝灰岩を使うのが常であったにもかかわらず…。

…なぜに。



■判明している「阿蘇ピンク石」の石棺

現在、全国で14例が発見されています。一覧は以下の通り。

◎[備前国津高郡] 造山古墳(5世紀第4四半期)
◎[河内国志紀郡] 長持山古墳(5世紀第4四半期)…消失
◎[河内国古市郡] 峯ヶ塚古墳(築造時期不明)

◎[大和国山邊郡] 別所鑵子塚古墳(築造時期不明)
◎[大和国十市郡] 兜塚古墳(5世紀第4四半期)

◎[大和国城上郡] (ミロク谷石棺)(5世紀第4四半期)…詳細不明
◎[大和国城上郡] (慶雲寺石棺)…詳細不明
◎[備前国巴久郡] 築山古墳(5世紀第4四半期)
◎[大和国添上郡] 野神古墳(5世紀第4四半期)
◎[大和国山邊郡] 東乗鞍古墳(6世紀第1四半期)

◎[近江国野州郡] 円山古墳(6世紀第2四半期)
◎[近江国野州郡] 甲山古墳(6世紀第2四半期)
◎[摂津国島上郡] 今城塚古墳(6世紀前半)
◎[大和国高市郡] 植山古墳(6世紀第3四半期)


次にこの発見例から、大まかな特徴をみていきます。

◎大和国で7例、周辺の河内国で2例、摂津国で1例、近江国で2例みられる。つまり畿内と、畿内にかなり近い箇所でほとんどを占めていること。

◎残る2例は備前国の2例のみであること。
すべてヤマト王権の範囲内ですが、なぜ備前国だけなのか。いずれもいわゆる「吉備王国」などと称される中心地。

◎最も多い大和国は、大和盆地の南東部に集中していること。今城塚古墳の真の被葬者とされる継体天皇が、晩年に営んだ「磐余玉穂宮」もほど近い場所。

◎河内国の2例はともに、いわゆる「中河内」。そして「古市古墳群」内。

◎近江国の2例は隣接する古墳。同じ一族のものと考えられます。琵琶湖の南東端に流れ込む「野州川」河口近く。

◎「阿蘇ピンク石」の石棺は「大王の棺(大王家の柩)」とも呼ばれますが、これは今城塚古墳で発見されたことがフィーチャーされたため。
他に植山古墳も推古天皇・竹田皇子の合葬墓とされる(後に磯長山田陵へ移葬された)。

◎上記2基の古墳以外は地域の首長級墓とみられる。

◎現在発見されたなかでは、5世紀第4四半紀~6世紀第3四半期までのわずか75年程度に利用されたのみ。

大まかなところは以上でしょうか。
書き出すとキリがないので、後々の記事にて深く踏み込んでいきます。




今回はここまで。

数回に渡り記事を上げていきます。


(河内国古市郡 峯ヶ塚古墳)