☆ 推古天皇 磯長山田陵
河内国石川郡
大阪府南河内郡太子町大字山田
(P有)
「王陵の谷」と称される敏達・用命・推古・孝徳天皇の各御陵、さらに聖徳太子の御廟と王陵が密集する地。5つの陵墓がまるで梅の花びらの如くと「梅鉢御陵」とも。
「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」。5つの陵墓はこの街道筋付近に築かれました。「磯長谷(しながだに)」と呼ばれています。
日本最古の官道。紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されます。
往時は道幅30mというとてつもないものでした。難波津で出迎えた外交使節等を京(飛鳥)まで招くための官道。
隋を「日沈む国」と言ってしまった手前…もう後にも先にも引けないといったところ。
墳墓の正式名称は「山田高塚古墳」。東西に長い三段築成の長方墳(東西59m、南北55m)。横穴式石室が2基。過去に調査があったとのこと。
第33代推古天皇陵に治定。また御子の竹田皇子との合葬墓となっています。
紀では「遺詔により竹田皇子之墓に葬った」とある一方、記では「大野岡上から後に科長大陵に遷した」とあります。「延喜式 諸陵寮」には「磯長山田陵」であると。
つまり石室が2基ある古墳となりますが、当地近くの「二子山古墳」「葉室古墳」(いずれも未拝)も御陵候補地として挙げれています。