*現在は境内撮影禁止、昔の写真を掲載します(2000年頃に撮影したものと思います)



日前神宮・國懸神宮
(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)


紀伊国名草郡
和歌山市秋月365
(P有)

■延喜式神名帳
[日前神宮] 日前神社 名神大 月次相嘗新嘗 の比定社
[國懸神宮] 國懸神社 名神大 月次相嘗新嘗 の比定社
[境内社 兎佐神社(行方不明)] 麻爲比賣神社の論社

■社格等
[旧社格] 官弊大社
紀伊国一宮

■祭神
[日前神宮] 日前大神
[相殿] 思兼命 石凝姥命
[國懸神宮] 國懸大神
[相殿] 玉祖命 明立天御影命 鈿女命
[境内社 麻爲比賣神社] (不明)


紀伊国一宮(三社有り)の一社。他の二社は丹生都比売神社伊太祁曾神社
一の鳥居から真っ直ぐ長い参道を進むと突き当たりに。向かって左へ進めば日前神宮へ。右へ進めば國懸神宮へ。二社が一つの社地に鎮まっています。
◎日前神宮は「日像鏡(ひがたのかがみ)」、國懸神宮は「日矛鏡(ひぼこのかがみ)」を御神体とする社。この御神体の謎、この社の謎を巡って古来より多くの意見が取り交わされてきました。以下、正史や代表的な文献等に見える、当社及び御神体についての記述を列記し、その簡単な補足にとどめおきます。
◎【紀 第七段 一書 一】
━━(天照大神が岩戸に閉じこもってしまったので八百萬神々が天高市で相談、高皇産靈の息子である思兼神が進言)「神(天照大神)を象ったものを造り、それを奉り招き出そう」と。そこで石凝姥天香山の金を採り日矛を作った。また神聖な鹿の皮を全部剥ぎ、天羽鞴(あめのはぶき、=ふいご)を作った。この鞴を用いて作ったものが、紀伊国に坐す日前神である━━(大意)
*ここでは最後の一文は「作ったもの」としておきます。
*ここでは「日矛」が何であるのか分かりません。
「天香山の金(かね)」とは「天香山の銅(かね)」のことであると思われます。
「神聖な鹿の皮を全部剥ぎ」とあるのは、「太占(ふとまに)」をしたということ。
◎【古語拾遺】
━━石凝姥神に日像鏡(ひがたのかがみ)を鋳造させた。初めに鋳造したものは少々意に合わない。これは紀伊国の日前神である。次に鋳造したものは美麗しい。これは伊勢大神である━━(大意)
*━紀の「作ったもの」というのが、この書をもって「日像鏡」であると解されます。
◎【先代旧事本紀 天神本紀】
━━石凝姥命天香山の銅を採って冶工し日矛を鋳造した。この鏡は少々意に合わない。これは紀伊国に坐す日前神である。また鏡作の祖 天糠戸神(アメノヌカトノカミ、石凝姥命の父神)に日像鏡を鋳造させた。その状態は美麗であるが、窟戸(天岩戸)に触れて小瑕(小さな傷)が有り、その瑕は今もなお存在する。これは伊勢大神、いわゆる八咫鏡、またの名を眞經津鏡(まふつのかがみ)である━━(大意)
*この書をもって「日矛」=鏡であると解されます。
◎【釈日本紀】
━━大倭本紀に曰く、天孫が天降った時、斎鏡三面・子鈴一令を奉じた。注に曰く一鏡は天照大神の御霊代で天懸大神といい、一鏡は天照大神の前御霊で國懸大神という。現在の紀伊国名草宮に坐す大神である。他の一鏡と子鈴は天皇の御饌神となり大神に奉仕した。現在の巻向の穴師の社の大神である━━(大意)
*「天懸大神」とは日前大神のこと。
*ここでも日前大神(天懸大神)と國懸大神の御神体は鏡であるとされます。
*「巻向の穴師の社」とは穴師坐兵主神社のこと。
◎【紀伊国造家系図】
━━石凝姥によって鋳造された日像鏡と日矛の二つの神宝(以下略)━━
*ここでは鏡と矛とされ、つまり矛は鏡ではないとされています。
◎以上から日前神宮の御神体である「日像鏡」については異論が無いものの、國懸神宮の御神体である「日矛」については鏡であるのか、いわゆる矛であるのか、確定できない状況と言えます。本居宣長も鏡ではないと断じています。
◎当社の創建については、天道根命が紀伊国造となり神鏡をもって奉祀したものとされます。当社の見解としては、天孫降臨の際に三種神器とともに両大神の御神体(ともに鏡としている)が副えられ、神武東征の先導役を担った天道根命が平定後に紀伊国造となり創建に至ったと。場所は「毛見郷琴の浦」の岩上であったとされますが、工場が建設され破壊、現存しません。崇神天皇の御代に濱宮へ、垂仁天皇の御代に現社地へそれぞれ遷座されたもよう。濱宮に鎮まる前に加太春日神社木本八幡宮へ鎮座していたという説も有り(詳細は → 濱宮の記事にて)
◎当地に元々鎮座していたのは伊太祁曽三神。当社が濱宮から遷座されるのに伴い、三神を追い出した格好に。これは国造に任命され、新規入植した紀氏(天道根命を祖とする)が、当地で厚く奉斎されていた三神を退けようとしたことによるものかと思います(詳細は → 伊太祁曽神社の記事にて)
◎神武東征神話においては皇軍が名草戸畔を誅したとなっていますが、地元伝承では皇軍を退けたとなっているようです。
ヤマト王権が後に巨大化していき、それにいち早く結び付いたのが紀氏であり、紀伊国造となり、当社が創建されました。ところが地元での反発は根強く、当社は当初は見向きもされず名草戸畔や伊太祁曽三神を奉斎していたと伝わります。
◎境内社に関しては、大社ゆえに相当数鎮座していますが大半が祭神不明になった状態。朽ちたままの祠も多く見受けられます。
式内社 麻爲比賣神社についても当社内に遷座されたとする説もありますが、まったくもって不明。現在は津秦天満宮に合祀されているとする説が有力。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。
*現在は一の鳥居から先は撮影禁止となっています。掲載写真は禁止となる以前のものです。



ここまでの2枚の写真は2019年9月参拝のもの。

ここから下は2000年頃の写真(撮影時期不明)


参道を突き当たった所。ここから二社が左右に分かれます。

日前神宮

國懸神宮

天道根命神社

中言神社。名草姫・名草彦神を祀ります。当地に新規入植した紀氏が順応できずに苦慮。伊太祁曽三神を追い出しさらに三分割して勢力を削ぐことと、名草戸畔を自身の系図に取り込むことという打開策を講じました。



境内社はほとんどが不明。崩壊したまま放置されている社殿も数社見受けられます。

薄紅色は古代のおおよその「紀ノ川」流路。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。