伊太祁曾神社
(いたきそじんじゃ)


紀伊国名草郡
和歌山市伊太祁曽558
(20台ほどのP有)

■延喜式神名帳
伊太祁曾神社 名神大 月次 相嘗 新嘗 の比定社

■社格等
[旧社格] 官弊中社
[現在] 別表神社
紀伊国一宮

■祭神
五十猛神
[配祀] 大屋津姫神、都麻津姫神


紀伊国一宮。紀伊国には一宮が三社あり、他は日前神宮・國懸神宮丹生都比売神社。内陸部の農村地帯に鎮座します。
◎ご祭神は五十猛命。紀と「旧事本紀」には登場しますが記では大屋毘古神と同一神。元々は別の神であったのが、おそらくこの地に侵食してきた紀氏により同一神とされたのだと考えられています。元始から当地に鎮まっていたのは大屋毘古神であったかと。
大屋毘古神はイザナギ・イザナミ神との間に生まれた神と同名神ではあるものの、別神とみるのが有力。大國主命が八十神の追跡から逃したのが、この大屋毘古神。「樹木の神」あるいは「家屋の神」とされ、高床式住居の流入とともに広まったという説も。
◎元々は現在の日前神宮・國懸神宮の地に鎮まっていたものが、濱宮から日前大神と國懸大神が遷座してきたため、社地を譲ったとあります。これはもちろん紀氏に社地を奪われたということ。
新規参入者である紀氏がこの地に根を張るには、大屋毘古神と首長であった名草戸畔(ナグサトベ)を取り込む必要があったと思われます。大屋毘古神は縄文の神(木の神)でしょうか、名草戸畔はその神を祀る祭祀者であったのでしょうか。おそらく紀氏は新羅系、郷里を同じくする五十猛神を奉戴したのかもしれません。
この異なる二神を同神化すること、名草戸畔を名草姫として系譜に取り込むこと、二つの画策を行ったものと想像されます。それほどこの地での崇敬の度合いは高かったのでしょう。元々紀氏は稚日女神(天照大神の妹神)を奉戴する氏族として日前宮を創祀、ところがこの地には一切根付かず方針変更。国津神の頭ともいえるスサノオ神の御子神である五十猛神に目を付けたことと思います。
◎「伊太祁曾」神は「五十猛」神と「大屋毘古」神との融合した神名とも考えられます。
一般に大屋津姫と都麻津姫は五十猛神の妹神とされていますが、神名から大屋津姫は大屋毘古神はセットなのでしょう(続柄不明)。大屋毘古神と大屋津姫神の娘神が都麻津姫なども考えられます(他の神社伝承から)。
ところが大和朝廷との対面上、国津神を祀るわけにはいかなかったのかもしれません。または指令があったのかもしれません、伊太祁曾三神を「亥の森」に遷座させます。これでもまだまだ地元民の反発は根強く、ついに三神を分離する策を打ちます。バラバラにされたうちの五十猛神を祀るのが当社。大屋毘古神の「木の神」という神格を引き継いだ、木々に囲まれた素晴らしい神社。
どうやら往古はこの地にスサノオ神が祀られていたようです。近くに「口須佐」「奥須佐」の地名が残り、小さな社(須佐神社)も鎮座。地理的に考えて伊太祁曾の地が「須佐」の中心部だと考えられます。ご本殿から少し離れた境内地に祇園社があり、磐座も座しています。スサノオ神は当地より、在田郡(現在の有田市)須佐神社へ遷座したと考えられています。
◎また水神も祀られていたのかもしれません。境内奥地の神々しい場所に御井社もあります。
境内には伊太祁曾古墳、境外徒歩10分足らずに三生神社(亥の森)も。奥宮は丹生神社(アクセスは記事参照)。
◎分離遷座された大屋都比売命は大屋都比売神社志磨神社が候補地。都麻津比売命は吉礼の都麻津比売神社平尾の都麻津姫神社高積神社が候補地。

*境内社 氣生神社/祇園社/磐座/水神社/櫛磐間戸神社(門神社)/蛭子神社/古墳(ときわ山)については別記事にて → こちらの記事にて




鳥居は近年、新調されました。

二の鳥居


拝殿とその前に並ぶ4本のご神木。



瑞籬内の凄まじいとも言える峻厳な佇まいは別格のもの。







一の鳥居脇の巨樹。



かつての鳥居の土台部。

チェーンソーで彫刻された龍の像。他にも多くの作品が展示されています。