須佐神社 (紀伊国在田郡)


紀伊国在田郡
和歌山県有田市千田1641
(P有)

■延喜式神名帳
須佐神社 名神大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
県社

■祭神
素戔嗚尊


紀伊水道に面する「中雄山」の中腹に鎮座。かつては山頂に鎮座していました。
「紀伊国続風土記」には和銅六年(713年)に、大和国吉野郡の「西川の峰」から遷座されたとあります。その「西川の峰」の所在地は分かっていません。吉野山とみるのが多いようです。
ご祭神は社名通りに須佐之男神。記にみえる大名牟遅神が須佐能男神が坐す「根の堅州国(かたすくに)」に向かう際に、まず木国(紀国)へ向かったと記されています。またその時、出雲国から追ってきた八十神から大名牟遅神を伊太祁曽三神が逃したとあります。つまり「根の堅州国」の手前の木国に伊太祁曽三神がいたということに。これは伊太祁曽神社の前の鎮座地である日前國懸神宮(記事未作成)に想定されます。
伊太祁曽神社の南東に「口須佐」「奥須佐」という地名が残っており、「口須佐」には非常に寂れた小さな古社ながら須佐神社が鎮座します。吉野の「西川の峰」から当社に遷される前に、この地に遷されたとも考えています。
また「西川の峰」とはどこなのか。熊野のなかでもかなり吉野に近いのが熊野本宮大社。スサノオ神が鎮まっていると考えられている社です。以上までを縫合すると、熊野本宮大社→吉野「西川の峰」→「口須佐・奥須佐」→当社(在田郡)といった流れも考えられるのではないでしょうか。
当社の始原を探る上で欠かせないのは、松前健氏が唱える紀国から出雲国への移住説。出雲国から熊野へ移住というのが一般的な考え。なかでも当社が名神大社に比定されているのに対して、出雲国の須佐神社が式内小社にしか比定されていないことを挙げ、朝廷が考えた重要度は当社の方が高かったという事実に着目しています。スサノオ神の原郷は当地であると。
なお「中雄山」山頂にあったとされる旧社地については別記事にて。その「中雄山」北麓には6~7世紀頃の古墳群があることから、創建は社伝より遡る可能性があります。

※写真は2016年1月撮影のものと2019年12月撮影のものとが混在します。


参道はけっこうな登り坂、少々疲れます。









参道から紀伊水道を。