志磨神社


紀伊国名草郡
和歌山市中之島677
(P不明)

■延喜式神名帳
志磨神社 名神大 の比定社

■旧社格
県社

■祭神
中津島姫命
[配祀] 生国魂神(イクダマノカミ)


紀ノ川の中洲が堆積して発達した地に祭祀が行われたとする社。その立地の観点から、中津島姫命を市杵島姫命と同神として水神が祀られています。
◎「新抄格勅符抄」には大同元年(806年)に「島神 七戸」(神戸として)と記されるなど、「志磨」はやはり「島」の意味であるかと思われます。
ただし「中津島姫命」というのは記紀にはもちろん他に見えず不明。以下の比定の際に市杵島姫命が宛てられ、勧請されたのではないでしょうか。そうするとその時から現在に至って祀られているのは市杵島姫命ですが、原初は異なるご祭神であったように思います。
このことを宮司らしき方に伺うと態度が一変、全力で否定しなぜか憤慨、追い返されましたが。神職としてあるまじき行為、非常に残念な方でした。
◎当社は元和年間(1615~1624年)に、式内大社 志磨神社に比定され社名を改めています。それまでは「九頭明神(国津明神)」であったとか。島内には6社の祠があったものの、もっとも社地に優れていたという理由で比定されたと伝わっています。
◎「紀伊続風土記」(江戸時代)には「紀三所社(伊太祁曾三神)を三箇所に分祀した」とありますが、当社はそのうちの大屋都比売神を祀るとしています。その三神とは伊達神(伊達神社)、靜火神(靜火神社)のことで、いずれも名神大社。
一方、「住吉大社神代記」には「船玉神社(住吉大社境内摂社 式内比定社)は紀ノ国に斎祀る紀氏の神なり 志麻神靜火神伊達神の本社なり」とあります。
◎やはり三神(三社)をセットにして考えるべきであり、鍵となるのは紀氏でしょうか。神武東征で名草戸畔を誅した大功により、紀氏は当地に入植したとされます。そして日前神宮・國懸神宮を創建し伊太祁曽三神を遷座したことになっています。当社を含めた紀三所社、総本社の船玉神社などは、紀氏の中でも船木氏が奉斎していた社であると。
◎ところが当地においての伝承はまったく異なるもの。皇軍(神武軍)は名草戸畔軍に敗戦、追い返されたと。神武軍は結局、熊野から山々を越えて大和入り、平定を果たします。時代は下り大和王権は徐々に勢力を拡大していき、この名草の地にも日前神宮・國懸神宮を創建し伊太祁曽三神を遷座させますが、思惑通りに支配は進まなかったようです。
そもそも紀氏は名草邑の人々が姓を変えたものであり、当初は大和王権と敵対関係にありました。さらに時代が下ると、大和王権の勢力は一層拡大し対抗することなどできない状態に。そして大和王権に取り込まれたのが、紀氏のうちの紀伊国造家や船木氏など。日前神宮・國懸神宮が創建されて伊太祁曽三神は遷座させられ、さらに三所へ分断させられますが、さらにその船木氏が奉斎したのが「紀伊三所社」ではないかと。一方で未だ大和王権にまつろわぬ紀氏たちが奉斎していた三所が、伊太祁曾神社、宇田森の大屋都姫神社に、吉札の都麻津姫神社または平尾の都麻津姫神社(未参拝)ではないかと。
宮司らしき人が不自然に憤慨したのは、この複雑な二重構造によるものかもしれません。

※写真は2017年2月撮影のものと2019年12月撮影のものとが混在します。