住吉大社


摂津国住吉郡
大阪市住吉区住吉2-9-89
(有料P有、200円/1h)

■延喜式神名帳
住吉坐神社 四座 並名神大 月次新嘗相嘗 の比定社
[境内社 大海神社] 大海神社 二座 元名津守安人神 の比定社
[境内社 船玉神社] 船玉神社の比定社
[境外社 大歳社] 草津大歳神社の論社
*境内外社の式内社については別記事にて

■社格等
摂津国一ノ宮
二十二社(中七社)
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社

■祭神
[住吉三神] 底筒男命 中筒男命 表筒男命
神功皇后


神功皇后の三韓征伐の際に神助があり、帰還後に祀られたとする社。住吉大神の御魂を船上で祀り出征、戦うまでもなく新羅国は降伏したとあります。
◎全国住吉社の総本社。ところが筑前国の住吉神社を住吉社の始原、現人神社をその元地とする説があります。「住吉神社略誌」には「住吉本社」とあり、「筑前国続風土記拾遺」には現人神社が元地であると記されています。
◎これらについては記紀に見えるイザナギ・イザナミ神の神話、「筑紫の日向の小門の檍原(ちくしのひむかの おどのあわきがはら)」で住吉三神が出現したという記述によるもの。
出現地で祀ったとするのであれば、筑紫国の住吉神社(こちらも異論有り)であろうし、その住吉三神から神助があったとするなら摂津国の当社になるであろうし、その違いによるものかと。なお住吉三神の荒魂は下関の住吉神社(未参拝)に鎮められているとされます。
◎神功皇后は帰路で麛坂皇子・忍熊皇子(カゴサカノミコ・オシクマノミコ)の反乱に遭います。さらに船が進まなくなるというアクシデント。そこに住吉大神が顕現し、「我が和魂をば宜しく大津渟中倉之長峽に居さしむべし 便ち因りて往来船を看む」とあります。
この「大津渟中倉之長峽(おおつのぬなくらのながお)」は、「住吉神代記」にある「渟中椋長岡玉出峽」と同じであるとみなし、当地のことと考えられます。麛坂皇子・忍坂皇子は誉田別命(後の応神天皇)の異母兄弟。仲哀天皇崩御の後を受けて、誉田別命に皇位継承されるのを危惧した上での反乱。このことがいわゆる創祀ではないかと考えられています(下記の「八十嶋祭」を創祀とみなす考えも)。
◎その後、神功皇后の孫神である仁徳天皇が難波に遷都し「墨江の津」を開港、以来遣隋使や遣唐使など航海の守護神とされてきました。武士の崇敬も篤かったようです。これは武家たちが崇めた八幡神(応神天皇)の母神であったことから。北条時子と重ね合わされたようにも思うのですが。
◎「住吉三神」はご祭神の項の通りであるものの、これは何を意味するのかが重要な鍵となりそうです。
神名や各住吉社から得られるのは海神であること。そして海人族が奉戴したであろうと。海そのものを3つに分けて神として崇めたということでしょうか。
興味深い説としては、オリオン座の真ん中に横一列に並ぶ三星ではないかというものも。「筒」は「星」を意味するものとしています。海人族にとっては、方角を知る上で星は重要なものであることですし。神功皇后所縁の地には悉く「三」と「星」が関連しています。
◎神功皇后が祀られるのは遺志であるとのこと。皇后が四番目のご祭神となったのは後世のことで、元々は住吉大神を斎祀る巫女であったとも。また衣通姫(玉津島明神)であったとする説もあります。
◎住吉大社を奉斎した社家は津守氏(津守連)。その津守氏の祖神は田裳見宿禰(タモミノスクネ)であり、在地氏族であったと考えられています。神功皇后出征に随伴し重要な地位を担っていますが、大規模な水軍を擁していたからと思われます。その田裳見宿禰率いる海人族たちが奉戴していたのが、住吉大神であったのではないでしょうか。
その津守氏の氏神は大海神社であり、当社境内に鎮座しています。
◎また神功皇后に対しても、田裳見宿禰に対しても紀氏が大きく関与していたと思われます。もちろん武内宿禰の子、紀角宿禰(キノツノノスクネ)が紀氏の祖。また武内宿禰の母である山下影媛は、紀直の遠祖である菟道彦(ウヂヒコ)
この紀氏の奉斎した船玉神社が、かつては第4本宮の前に鎮座していました。
◎住吉大神はときに塩土老翁に例えられます。また塩土老翁は安曇磯良(アヅミイソラ)の生まれ変わりであるとも。そしてその風貌は、皇后の右腕であった武内宿禰であると示唆するようでも(この辺りのことについては、いずれ記事を起こしたいと思います)。
◎「住吉(すみよし)」は、元々は「住吉(すみのえ)」でした。「住ノ江」「墨ノ江」など多くの字が当てられています。現在の大阪市はそのほとんどが古代は海中。当社がある地は北に長く突き出た半島でした。まさに航海の守護神としては格好の地であったと言えます(最下部に絵図を掲載しておきます)。
◎古代から中世にかけて行われた天皇の即位儀礼の一つである「八十嶋祭(やそしまさい)」に、当社は大きく関わっています。「難波津」で行われ生島神・足島神が主神であったと考えられますが、住吉神四座など難波の在地神にも幣帛が供えられました。また次第に「難波津」から住吉に移されています。
◎当社の真東に河内国二ノ宮である恩智神社が鎮座します。旧石器時代からの信仰があったとも言われる霊峰「高安山」を御神体とする社。当社は春秋分の日に「高安山」山頂から太陽が昇る地として選定されたと考えられます。また坐摩神社も冬至の日に「高安山」山頂より太陽が昇る地に選定されたものと。
恩智神社と当社とは古代より祭礼日が同日。これは偶然のものではないと考えられます。


◎境内及び近接境外社

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。









第一本宮(底筒男命)

第二本宮(中筒男命)

第三本宮(表筒男命)

第四本宮(息長足姫命)

南門

御田

弥生時代の絵図。梶無神社の宮司の許可を得て掲載します。かつて存在した「大阪歴史博物館」の閉館の際に譲り受けられたもの。当社は「恩智」の真西、「上町台地」の「地」の辺りに鎮座。


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。