恩智神社
(おんじじんじゃ)


河内国高安郡
大阪府八尾市中町5-10
(P有)

■延喜式神名帳
恩智神社 二座 並名神大 月次相嘗新嘗 の比定社
天照大神高座神社の論社

■旧社格
府社

■祭神
大御食津彦大神
大御食津姫大神


河内国二ノ宮であったとされる社。一ノ宮は枚岡神社であるものの、かつては当社の方が格上であったとみられ、河内国随一の社と考えています。
◎当社は「高安山」の尾根上に鎮まります。旧社地は西方500mほど、麓の「恩智石器時代遺蹟」内の祇園社(現 八坂社)。この「高安山」こそが、河内国と摂津国のシンボルであり霊峰であったかと思います。
◎御神体山「高安山」のほぼ真西に住吉大社が鎮座、これは「高安山」山頂から春秋分の日に朝日が昇る地として選ばれたのであろうと考えています。祭礼等も上古から当社と同日に行われるなど、両社には密接な関連があるようです。またもう一つの摂津国きっての大社、坐摩神社の旧社地が「高安山」山頂から冬至の日に朝日が昇るという事実、「高安山」が「迎日信仰」のシンボルとして仰がれていたと考えています。
◎また「高安山」山頂近くには磐座群が座します(現地未確認)。この霊地の麓に石器時代から人々が住み着き、弥生時代には住吉大社坐摩神社などがこのシンボルを仰ぐ地に創祀されたのではないかと。
◎「迎日信仰」については、渡来系の都祁(ツゲ)国造一族が行っていたとされるもの。大和国の都祁・山添地方に拠点を移す前は摂津国を拠点としていました。
当社から北へ400mほどの山の中腹に天照大神高座神社・岩戸神社が鎮座します。「高安山」とは尾根続き。こちらは渡来系一族が霊地として祭祀を行っていたとされます。現在でも朝鮮系移住民の参拝が圧倒的に多く、彼らは「天照」は「アマテラス」とは読まずに朝鮮半島で最高神とされる「テンテル」と呼んでいると宮司談。
◎当社の二殿居並ぶご本殿の間に境内末社 天川神社が鎮座。ご祭神は春日辺大明神。これは天照大神高御座神社のご祭神ではないかとする説もある、春日戸神(カスガベノカミ)と同神。
創建等は不明ながら当社奥の院であったという伝承も。さすれば当社と天照大神高御座神社とは非常に密接な関連のある社かと思われます。
◎大和国十市郡に鎮座する多坐弥志理都比古神社に伝わる「多神宮注進状」などの古資料では、「珍子 賢津日霊神尊(ウツノミコ サカツヒコノミコト) 皇像瓊玉坐=河内国高安郡春日部坐宇豆御子之社と同神」と「天祖 賢津日靈神尊(アマツオヤ サカツヒメノミコト) 神物圓鏡坐=河内国高安郡春日部坐天照大神之社と同神」とあるようです。そして具体的な神名として「珍子」=天忍穂耳尊、「天祖」=天疎向津媛尊(アマサカルムカツヒメ=天照大神の荒魂)としています。
この「河内国高安郡春日部坐宇豆御子之社」は恩智神社の境内末社 天川神社(ご祭神/春日部大明神)、また「河内国高安郡春日部坐天照大神之社」は天照大神高座神社のことであろうと思われます。
◎当社と天照大神高座神社・岩戸神社のちょうど間くらいで銅鐸が出土しています。当社から1kmほど南の尾根続きの「高尾山」の中腹には鐸比古鐸比売神社が鎮座、山頂には高尾山巨石群が座します。社名から察して鍛冶氏族が奉戴した社と考えるのが妥当、彼らが銅鐸を製造したのかもしれません。
◎当社の創建に関しては不明、社伝に雄略天皇三年に神事が行われた記述があることから、それ以前からの創祀となるのでしょうか。ただし「大阪府誌」は白鳳年間(672~682年)のこととしています。
◎社伝では奈良時代の天平宝宇(757~765年)に藤原氏により再興されたとあります。この時、常陸国の香取神宮(未参拝)から天児屋根命を摂社として分祀したと。それが枚岡神社を経て春日大社へと遷ったとしています。
ところがこの所伝はいささかお粗末で、まず常陸国に鎮座するのは鹿島神宮であり香取神宮ではありません。また鹿島神宮に鎮まるのは武甕槌神、香取神宮に鎮まるのは経津主神。天児屋根命はどこから現れたものか。枚岡神社春日大社においても、当社から遷されたなどという伝承もありません。
◎ご祭神についても不明。原初は社伝では手力男神を祀っていたとしているのに対して、「大阪府誌」は天児屋根命と。境内社に天児屋根命を祀る社が鎮座していることから、社伝を取るべきなのでしょうか。そして枚岡神社へ天児屋根命が遷座後に、現在の大御食津彦大神と大御食津姫大神が鎮まったとされます。
◎社伝によると大御食津彦大神は、天児屋根命五世孫の大御食津臣命の子の大期幣美命の後裔としています。ところが「新撰姓氏録」では「高魂命子伊久魂命之後也」と。つまり高皇産霊神の御子である伊久魂命の後裔であり、天児屋根命とはまったく異なる系譜。また大御食津姫大神については豊受大神と同神としています。
◎これらに対して大和岩雄氏は物部氏が祖神を祀ったものという説を出しています。確かに麓の八尾市は物部氏の本拠地であり、可能性は十分にあるかと考えています。大胆に想像するなら、元々は物部系の経津主神が祀られていて、それを天児屋根神にすり替えられたなどとも。
いずれにしても当社のご祭神、創建由緒いずれも謎だらけと言わざるを得ないかと思います。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。



一の鳥居の脇に座す磐座らしきもの。


駐車場は左手の道をさらに上ったところに。

参道は長い坂道、ちょっとした運動に。



ご本殿は二殿並び、その間に天川神社が鎮座。ちょうど兎の置物の後ろに。

こちらが天川神社。


天児屋根命を祀る境内社。

橘が植えられています。

境内から麓を。淡路島まで一望できます。