春日大社


大和国添上郡
奈良市春日野町160
(春日大社有料P利用、料金不明)

■延喜式神名帳
春日祭神四座 並 名神大 月次新嘗 の比定社
[境内摂社 紀伊神社] 赤穂神社の論社、島田神社の論社、御前原石立命神社の論社、天石吸神社の論社
[境内摂社 榎本神社] 春日神社の比定社
[境内末社 井栗神社] 宇奈太理坐高御魂神社 大 月次相嘗新嘗 の論社
[境外別宮 氷室神社] 高橋神社の論社 
※「春日大社」以外の摂末社等はそれぞれ別記事にて紹介

■社格等
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社
勅祭社
大和国一宮

■祭神
[第一殿] 武甕槌命
[第二殿] 経津主命
[第三殿] 天児屋根命
[第四殿] 比売神


全国にあるおよそ三千社の春日神社の総本社。
◎平城京の守護神として鎮座。「日本最高の四柱の神様がご降臨」した社であり、「国を護るため四つの御殿に御鎮まりになった」社。
歴代天皇を始めとした皇室、貴族全般、各幕府の将軍等から1300年近くに渡り厚い崇敬を受けてきました。
応仁の乱や戦国時代の争乱、世界大戦にも巻き込まれることは無く、唯一古代のまま残された社でも。そのため356点の国宝と998点の重要文化財を所有します。
またユネスコ世界遺産に「古都奈良の文化財」として、平城宮跡や東大寺・興福寺などとともに、当社と神域である春日原始林(「春日の千古の森」の記事参照)が認定登録されています。
およそ坪(現在は)もある広大な神域を抱え、「世界一大切にされる神鹿」が約1200頭(現在)いる観光スポットとして1300年近く経た今も愛され続ける社でも。
◎当社は神護景雲二年(768年)、藤原氏(中臣氏)の氏神として創建されました。創建に至るまでの経緯は以下の通り。数々の調査、正史や当社を中心とした古記録、古書等、そして伝承なども含めた現職宮司が公にしているものを要約して掲げておきます。
・和銅元年(708年) 平城遷都の詔が出される。これは四神相応に当てはまり、三山の素晴らしい山(うち一山が「御蓋山」)があり、占いを行っても良いとされる地であったという。
・和銅三年(710年) 平城京遷都
・霊亀九年(717年) 御蓋山の麓で遣唐使の安全祈願祭が行われる(続日本紀)。安倍仲麻呂も参列。35年ぶりに帰国した際には「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山(御蓋山)に出でし月かも」と歌う。
・天平七年(735年)の「伊呂波類字抄」には「春日四所明神を春日山に崇祀」という記述有り。
・天平十二年(740年)の「神宮雑令集」や前述の「伊呂波類字抄」 には「大中臣清万呂、春日御社を摂津嶋下郡寿久郷に奉遷」という記述有り。
・天平勝宝二年(750年) 「(孝謙)天皇 春日酒殿に幸し…」の記述有り(続日本紀)。既に酒殿はあったと考えられる。
・天平勝宝七年(755年) 光明皇后が紫微中台に春日四所を祀った(「春日私社記」による)。
・天平勝宝八年(756年) 「春日御社を伊勢国度会郡津島崎に奉鎮」(「神宮雑令集」による)
・天平勝宝八年(756年) 「東大寺山堺四至図」に既に当社が描かれている。
・神護景雲二年(768年) 春日大社創建。「古社記」、「春日権現験記絵」に記述有り。ここまでの経緯から現在と同様の四殿が創建されたと考えられる。
◎以上から神護景雲二年(768年)以前に既に創建されていたとみるべきかと思います。この年を「創建」としているのは、その時に現在のような壮大な社に造り替え、それをもって全てを一新し「創建」としたのではないかと考えています。
◎「日本最高の四柱の神様がご降臨」した社であると。これは「国を護るため」という高遠で厳威なる目的があったためと思います。従って文字通りに最高神たちに守護して頂くことが大前提であったと。
最高の武神(武甕槌命)、葦原中国平定のために共に戦った戦友(経津主命)、最高の祭祀を司る神(天児屋根命)、皇祖神(天照皇大神)の四柱。
一般に当社や枚岡神社において「比売神」とは、天児屋根命の妻神で天美津玉照比売命とされます。この神を天照皇大神と同神とするかどうかについては意見の分かれるところですが、創建意義を考えるのであれば、同神とするのかどうかは別として「比売神=天照皇大神」であろうと考えています。
平城京は藤原不比等が中心となり造られた都。そして以後、国を動かしていったのは藤原氏。当社は藤原氏の氏神ですが、平城京=藤原氏、国=藤原氏と捉えても決して言い過ぎではないように思います。
◎当社創建以前には春日氏が拠点としていたと考えられています。榎本神社がご本殿の回廊上、南門に隣接し地主神として祀られています。おそらく土地譲りがあったと思われ、説話が残されています(榎本神社の記事参照)。
◎御神体は「春日山」であり「御蓋山(三笠山)」。奥山が「春日山」、手前が「御蓋山」。「御蓋山」は美麗な三角錐の山容である、いわゆる神奈備山。一体として見える時もあれば、別々に見える時も。雨が降ると「御蓋山」の後ろから水蒸気(雲母)が立ち上り、美しい「御蓋山」がくっきりと浮かび上がるという、何とも神々しいお姿に。
その西麓に当社が創建され、さらにその西に平城京が造られています。都人は両山から朝日が昇るのに手を合わせ拝み、そして一日が始まるというそんな姿を想像します。
これは三輪山などに顕著に見られる、厳粛な太陽祭祀の恒常化したものと思います。現在にもさらに恒常化して残される「お天道様(おてんとさま)が…」というものかと。
古代人はさまざまな恵みをもたらす太陽を最高の神と称え、こと奈良においては深刻な水不足であるがゆえ、水神である御子神を若宮社に手厚く祀り、樹の神を紀伊神社にこれまた手厚く祀ったのであろうと思います。
◎奈良最大の祭は「若宮おん祭」。これは「一年を締めくくる年末に国家安寧を祈る大和一国をあげての大祭」。中世から約900年連綿と続けられてきました。もちろん若宮社に祀られる天押雲根命(若宮)を盛大に称えるもの。ご本殿四座とは異なり、「奈良生まれ」の神として別格に崇められています。
また1200年以上も続くのが勅祭「春日祭」。葵祭(賀茂祭)、石清水祭とともに「三勅祭」とされています。藤原氏絶頂期には平安の都から2500人もの官人が大行列をなして、春と秋に奈良に向かいました。

(※当記事は随時加筆訂正していきます)


☆摂社紹介記事
若宮神社(当社のみ別殿)、氷室神社(当社のみ別宮)、紀伊神社水谷神社榎本神社
☆奥山五社紹介記事
高山神社 (残り四社は禁足地内)
☆末社紹介記事
☆その他 春日山原始林内



一の鳥居







神鹿とご本殿。

本宮神社遥拝所

御蓋山浮雲峰遥拝所



萬灯籠を再現した「藤浪乃屋」。