☆ 鶯塚古墳 (附 「若草山」山頂)



大和国添上郡
奈良市春日野町(「若草山」山頂付近)
(P有り、有料道「奈良奥山ドライブウェイ」往復530円必用)



*既にたくさんの「いいね」を頂いていますが、記事を大幅に改定し再UPします。


この度、ドローンを駆使した調査・撮影が行われ、新たな発見がありました。

知られているようで…知られていないようで…
実は「若草山」山頂には巨大前方後円墳があります。

奈良北部全体を見下ろすことができるこの場所に築かれた古墳。ただものではないということは明らか。

あまり知られないのは、
古墳マニアさんがこの古墳だけを見るために、遥々とドライブウェイを登って来ることが少ないからでしょうか。

また「若草山」山頂はデートスポットというのが、奈良人の定番。
カップルがひしめくところで祝詞なんぞを奏上していると、おかしな人と思われるのがいいところ。

コロナ禍で人が来ず、他に誰も写らない貴重な写真を納めることができました(2020年5月)。

◎前方後円墳
◎全長104m。
◎4世紀後半(古墳時代前期後半)

今回の調査では規模が確定されたことと、前方部の正面に陸橋で繋がる出島状施設(島状の高まり)が確認されました。

これまでは陪塚と見られていたもの。幅25m奥行き17m。過去には船型の石製品が出土。同じく出島状施設を有する大和国廣瀬郡の巣山古墳、河内国丹比郡の津堂城山古墳などで水鳥型埴輪が出土。水辺で行われる祭祀を古墳で表現したものと見られています。

最大の焦点は被葬者ですが、今のところ不明。

かつては仁徳天皇皇后 磐之媛と考えられていました。現在磐之媛に関しては…
◎治定陵墓→ヒシゲ古墳
◎参考陵墓→小奈邊古墳

当古墳は参考陵墓にもなっておらず、おそらく管理は「奈良公園管理事務所」。宮内庁は手放してしまっているようです。

標高300m以上の、しかも山頂に築かれたという、類い希な古墳。大和国北部全体、大和国の北側の山城国を流れる「木津川」を見下ろすという位置。そして前方後円墳。

大王級の王墓、或いは皇族の子孫かつ有力豪族の首長墓となるのでしょうか。

今回調査に当たった東京大大学院生の柴原氏は以下のように述べています。

━━山頂に築かれた鶯塚古墳は、大和盆地だけでなく、北の木津川流域からもよく見える。船で行き来する人々に誇示する意図がうかがえ、この地域を拠点として河川交通を掌握した氏族・ワニ氏との関係が想定できる━━

和珥氏(ワニ氏)は第5代孝昭天皇の第一皇子、天足彦國押人命(アメノタラシヒコクニノオシヒトノミコト)を始祖とする一族。
5~6世紀頃に栄え、大和国添上郡が本貫地。総氏神は添上郡の南端に鎮座する和爾坐赤阪比古神社

一族の古墳は和爾下神社古墳赤土山古墳を始め、およそ200基からなる東大寺山古墳群に集中しています。

和珥氏は継体朝の頃に宗家は断絶。添上郡「春日」の地に拠点を移し、春日臣と名乗った者たちが宗家を継いだものとみられます。

その添上郡「春日」の地が、現在の春日大社が鎮座地。もちろん「若草山」「御蓋山」「春日山」など神域をすべて含んだ地であろうと思われます。春日大社創建の際に藤原氏に国譲りされています。

春日臣の始祖とされるのは、天足彦國押人命の五世孫 難波根子武振熊命(記紀には和珥臣の祖と記される)。

主な事蹟は…
◎神功皇后三韓征伐で活躍
◎神功皇后元年の押熊王反乱の鎮圧

◎仁徳天皇六十五年の「飛騨の両面宿儺」討伐

当古墳はこの難波根子武振熊命の墳墓ではないかと考えます。或いは子の米餅搗大臣(タガネツキノオオオミ)、日蝕使主(ヒフレノオミ)辺りではないかと結論付けます。


*写真は2020年5月撮影のものです。



柵はあるものの、階段が設置され、立入禁止の標示は無し。宮内庁管轄ではないため、入ってもいいのだろうと思います。



三角点(古墳内)






*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。