和爾坐赤阪比古神社


大和国添上郡
奈良県天理市和爾町1194
(進入口は狭いが境内に駐車可、国道169号より「白川橋」交差点から北西の道を通るのがベター、他の道は通れなくもないがかなり狭小)

■延喜式神名帳
和尓坐赤阪比古神社 大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
阿田賀田須命
市杵島比賣命


謎多き和爾氏(和珥氏)の総氏神とされる神社。天理市和爾町から櫟本町にかけては、弥生時代の高地性集落が発見されており、また200基ほどの東大寺山古墳群があり、いずれも和爾氏のものと考えられています。
◎古代においては西の葛城氏、東の和爾氏とされるほどの大氏族。応神天皇から敏達天皇まで七代に渡り后妃を送り出しています。ところが後裔が16氏族に別れて「和爾」の名前は薄れていきます(春日氏・小野氏・柿本氏・大宅氏など)。Wikiでは2世紀頃に出雲から大和へ移った、太陽信仰を持つ鍛治集団であったという説を掲載しています。
◎当社から南へ1kmほどの東大寺山古墳(東大寺山古墳群の一基)からは、「中平」という2世紀末の中国の元号が刻まれた鉄刀が出土しています。この東大寺山古墳の西側には、こちらも和爾氏が斎祀っていた和爾下神社(上治道天王)が鎮座しています。
その和爾下神社は「式内社 和爾下神社 二座」の比定社であり、上治道天王社下治道天王社に分かれています。それは当社「和爾」に対しての「下」の神社のことかと考えられ、当社が総氏神とされます。
◎元々は当地より東方300mほどのところにあったとされますが、遷座理由等は不明。その辺りにいくつか池はありますが。
◎当社から西方100m余りに「和珥坂下傳稱地」という石碑が建てられています。これは紀の神武天皇の記述に、「和珥坂下に巨勢祝(コセノハフリ)といふものあり」とある伝承地。まつろわぬ土蜘蛛として描かれています。
春日大社の境内摂社に榎本神社があります。こちらは春日大社創建前に鎮まっていた地主神。和爾氏から枝分かれした春日氏が奉斎していた巨勢姫明神がご祭神(現在は猿田彦大神に祭神替えされています)。「巨勢祝」とは巨勢姫明神のことと導き出され、また和爾氏一族が奉斎していたものと思われます。
和爾氏は大和王権に屈したものの、後には外戚関係を結び巨大氏族へとなっていったことが分かります。
◎和爾氏は第5代孝昭天皇の第一子、天足彦国押人命を祖とする氏族であると「新撰姓氏録」にはあります。ところが当社のご祭神は吾田賀田須神。記紀には見えない神で、「新撰姓氏録」には大和国神別(地祇)に和仁古というのがおり、それが大國主六世孫である「阿太賀田須命」の後也と出ています。
◎また河内国神別(地祇)にも宗形君が大國主六世孫である「吾田片隅命」の後也と。おそらく阿太賀田須命と吾田片隅命は同神であることから、元々は海人族ではなかったかとする説が出ています。「吾田(阿太)」というのも吾田(阿太)隼人に通ずる可能性も。
◎冒頭に記した鍛治集団という説に詳しいのは大和岩雄氏。和爾氏は石上神宮の元々の祭祀氏族であったとしています。
社名にある「赤阪」というのが、「丹(朱、水銀)」が採れたことによる土壌の性質を由来とする考えを挙げています。また備前国にも「赤坂」という地名があり、そこには石上神宮の元社とされる石上布都魂神社があります。興味深い説ではありますが。
◎なお当社地は古墳の上だということですが、集落が形成されており墓域がどこからどこまでかはさっぱり分かりません。

※写真は2018年7月、2019年11月、2020年12月撮影のものが混在しています。