和爾下神社 (下治道天王)
(わにしたじんじゃ)


大和国添上郡
奈良県大和郡山市横田町治道23
(石灯籠の左側に縦列にて駐車スペース有)

■延喜式神名帳
和爾下神社 二座 の比定社(二座のうちの一座)

■旧社格
村社

■祭神
素盞嗚尊
大己貴命
櫛稲田姫命


大和郡山市の南東端、「横田町治道(はるみち)」に鎮座する社。境内背後に「高瀬川」が流れ、東西は当社を中心に集落が広がります。
◎天理市櫟本町にも同名社があり、式内社二座がそれぞれ比定されています。大抵の場合は合祀されるものですが、元から二社存在したのか分裂したのかは不明、意見が分かれているようです。東西に3km近く離れており、天理市櫟本町の方を「上治道天王社」、当社を「下治道天王社」と称しています。二社あるという事実は、かなり古くからのようです。
◎社名の「和爾」の「下」というのは、北の和爾町に鎮座する和珥氏(和爾氏)の氏神である和爾坐赤坂比古神社に対してのことであろうと考えられています。
◎以下、さまざまな資料から当社を探ります。社頭案内には「6世紀頃に横田物部氏の円墳の丘に和爾下神社を安置した」とあります。「大和志料」でも指摘されているように、当地一帯は横田物部氏の居住地であったようです。そしてその祖神(饒速日神か)を祀る神社としています。
◎一方、「日本の神々」には壱比韋臣(イチヒヰノオミ)の根拠地であったとしています。
この壱比韋臣とは天帯彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒトノミコト)を祖とする氏族で、和爾氏や柿本氏(上治道天王社の方を祀る氏族か)などが同族、いわゆる和爾氏系16氏族の一。観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=第5代孝昭天皇)の第1皇子であり、日本帯彦国押人天皇(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト=第6代孝安天皇)の兄神。
◎「式内調査報告」によれば、和爾下社(当社の方)の神官は櫟比氏(壱比韋臣と同じ)とし、天帯彦国押人命と日本帯彦国押人命の兄弟二座を祭神としています。
なお「式内調査報告」では、櫟本の上治道天王社の方も天帯彦国押人命の御子、孫、曾曾孫(なぜか三座)を祭神としています。
◎以上から鑑みて元々は壱比韋臣が祖神を祀る神社であったものが、横田物部氏の移住により取って変わったと考えられます。
◎現在のご祭神は、多くの神社にあるように牛頭天王を祀る社に祭神替えが行われ、明治の神仏分離令により本体の素盞嗚尊が残ったものと思われます。

*写真は2018年6月と2021年8月撮影のものとが混在しています。