和爾下神社 (上治道天王)


大和国添上郡
奈良県天理市櫟本町櫟本宮山
(P無し、一の鳥居を潜りすぐ左の境内社付近にいつも停めています)

■延喜式神名帳
和爾下神社 二座 の比定社(二座のうちの一座)

■旧社格
村社

■祭神
素盞嗚命
大己貴命
櫛稲田姫命


天理市北部「櫟本町(いちのもとちょう)」東部の丘陵頂に鎮座する社。平地に設けられた一の鳥居から東へ200m、そこから何度かの曲折を繰り返しながら石段を駆け上がった先に社殿。広大な神域を誇ります。
◎大和郡山市横田町にも同名社があり、式内社二座がそれぞれに比定。合祀されているのが通常ですが、元から二社なのか分裂したのかは不明。東西に3km近く離れており、当社を「上治道天王社」、大和郡山市横田町の方を「下治道天王社」と呼んでいます。二社あるという事実は、かなり古くからのようです。
なお社名の「和爾」の「下」というのは、北の和爾町にある和爾坐赤坂比古神社に対してのことであろうと思います。
◎当社の創建由緒等について、古社でありながら探るための材料は数多く揃っているかと思います。まず東大寺山古墳群の一つ、和爾下神社古墳の頂きに鎮座すること。
東大寺山古墳群は東大寺山古墳赤土山古墳和爾下神社古墳などの100m超級の大規模な古墳を中心とし、およそ200基ほどで構成されています。4~6世紀頃(橿考研付属博物館HPより)の築造と推定されるもの(もう少し遡られるとする説も)。和爾氏の奥津城とも考えることもできるとか。東大寺山古墳から出土した、中国2世紀末の元号「中平」が記された鉄刀でも有名(下部に参考写真有り)。
当社はその中の和爾下神社古墳の頂に鎮座、古代の最有力氏族の一つでもあった和爾氏が拠点としていた地にある社。
◎2つ目は古墳の石室のあるところであり、境内の一角でもあるところに柿本寺(しもとでら)があったこと(現在は廃寺)。こちらについては神宮寺であったとも、逆に当社が鎮守社であったとも。
柿本氏は和爾氏の後裔。和爾(和珥)氏は第5代孝昭天皇の第1皇子、天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒト)を始祖とする氏族。2世紀頃に当地に移住、5~6世紀頃に権勢を誇った氏族、春日山の方へ移り春日和珥臣となった者や当地に残った者など全16氏族に別れます。そのうちの柿本氏が斎祀った社と言えます。
つまり上治道天王社は柿本氏が祀り、下治道天王社は市比韋臣が祀り、ともに後裔氏族が祀る神社。そして総氏神が和爾坐赤坂比古神社であるということかと思います。
◎ご祭神については、「式内調査報告」によると天足彦国押人命・彦姥津命(ヒコハハツノミコト)・彦国葺命(ヒコクニブクノミコト)としています。彦姥津命は天足彦国押人命の孫神であり、妹神の姥津媛命が第8代開化天皇の妃に。彦国葺命はその開化天皇と姥津媛命の間の子神であり、埴安彦追討で有名(埴安彦の謀叛 前編後編の記事参照)。つまり和爾氏の遠祖三神を祀ったとしています。
ところが「延喜式神名帳」に見えるのは二座。三柱のうちのいずれか二柱、もしくはその家系のいずれか二柱であろうと思われます。
また別の説として上治道天王社と下治道天王社で一柱ずつということも考えられます。
◎非常に広大な社地を有し、なかには住宅も多く建てられてしまい参道も生活道路に。どこまでを境内とするのかは不明、開発により破壊された古墳も多くあるようです。

*写真は過去数年に渡る参拝の時のものが混在しています。


国道169号沿いにある一の鳥居。ここからが境内ということになろうかと思いますが、一般住宅が多く建ち並びます。車の進入禁止となっていますが、社地の中に建つ住宅や近隣住民の生活道と成り果てています。


一の鳥居すぐ横。茅の輪が設けられていたので、祓戸社であることが分かりました。

ここからが現在の参道と解すべきでしょうか。この向かいにも摂末社があります。



二の鳥居



石室の蓋石が見えます。


ここから墳丘を一気に登るとご本殿。


狛犬は名工 丹波佐吉によるもの。