柿本神社 (歌塚、天理市櫟本町)


大和国添上郡
奈良県天理市櫟本町2421
(和爾下神社社地内に鎮座、和爾下神社P利用)

■祭神
柿本人麻呂公


櫟本町の和爾下神社(上治道天王社)の一の鳥居をくぐり参道を東へ、和爾下神社の北へ登る参道の脇に鎮座。Google mapでは「和爾下児童公園」と表されています。
◎和珥氏は6世紀頃に16氏族に分割、そのうちの一氏族が柿本氏。明治の神仏分離令により廃滅した柿本寺の管理を引き継ぐ極楽寺(JR櫟本駅そば)が、平成十六年に創建した社。
◎「櫟本町(いちのもとちょう)」は柿本人麻呂の生地とされます。また当地では石見国で没した(異説有り)人麻呂の遺髪を、後妻の依羅郎女(ヨサミノオトメ)が持ち帰り、当地に葬ったと伝わっているとのこと。それが「歌塚」であり、人麻呂人気が高まるにつれ一般に知られるところとなったようです。現在の碑は享保十七年(1732年)に建てられたもの。
◎寿永二年(1183)藤原清輔の弟顕昭(ケンショウ)が著わした『柿本朝臣勘文』によると、「清輔が語っていうに、大和国へ下向した時、古老から聞いたが、添上郡石上村の傍らに社があり、春道社という。その中に寺があって柿本寺といい、人丸の堂である。その前の田の中に小塚があって人丸墓という」と。
「春道社」とは和爾下神社(上治道天王)のこと。柿本寺は柿本氏の氏寺であり、寺跡が和爾下神社境内にあります。出土古瓦から奈良時代に創建されたみられています。
◎また『藤原清輔家集』という書には、「大和国石上柿本寺という所の前に人磨呂の塚ありと聞きて卒都婆(そとば)に柿本人丸の塚としるしつけて傍にこの歌をなん書けり━━世を経ても あふべかりける 契こそ 苔の下にも くちせざりけれ━━」と。
藤原清輔とは平安後期の歌人。彼が当地を訪れた時のことが紹介されています。

*写真は2018年7月と2022年7月撮影のものとが混在しています。


和爾下神社の駐車場が新たに設けられました。




「歌塚」碑


大和国添上郡の神社