石上布都御魂神社


備前国赤坂郡
岡山県赤磐市石上字風呂谷1448
(第1~4駐車場まで有、奥宮登拝を考えるともっとも近い第1駐車場か)

■延喜式神名帳
石上布都之魂神社の比定社

■社格等
備前国一宮
旧郷社

■祭神
素盞嗚尊


神剣「十握の剣」を奉斎していた社、スサノオ神が八俣大蛇を斬ったその剣は当社で祀られていた後に大和国の石上神宮へと遷りました。ご本殿の脇から、「本宮」と呼ばれる古代祭祀場への登拝ができます(別記事にて)。
江戸時代後期の吉備温故秘録には「布都御魂」を祀る神社、また神社明細帳には「十握劒」がご祭神であると記されています。
石上神宮に鎮まる前に当社にあったとすることは書紀に記されています。
◎「其の蛇を断りし劒をば號けて 蛇之麁正(おろちのあらまさ)と曰ふ 此は今石上に在す」
◎「素盞嗚尊 蛇之韓鋤(おろちのからさひ)の劒を以て 頭を斬り腹を斬る…其の素盞嗚尊の蛇を断りたまへる劒は 今吉備の神部の許に在り」
◎「素盞嗚尊 及ち天蝿断(あめのははきり)の劒を以て 其の大蛇を斬りたまふ」
神剣は3通りの名で記されますが、その内容から布都御魂剣(韴霊剣)のことで間違いなく、しかも当社に鎮まっていたと考えて良さそうです。当社の神職も物部姓であるとか。
このことは石上神宮御由緒記(大正時代、後述)にも記されています。
神剣が遷された時期については2通りの説があるようです。
◎吉備温故秘録「崇神天皇の御宇 大和国山邊郡石上村へ移し奉る」
◎石上神宮御由緒記「もと備前国赤坂宮にありしが 仁徳天皇の御代…当神宮に遷し加え祀る」
崇神天皇の御代に大和国の石上村へ遷されたが石上神宮に鎮まったのは仁徳天皇の御代であったという考えもありますが、文面から素直に判断して石上布都魂神社から石上神宮へ遷されたとみるべきでしょうか。そうすると崇神天皇の御代か仁徳天皇の御代かのどちらかに。
こればかりは判断は難しく専門家の判断に委ねるべきところでしょうか。
当地は人里離れた山中にあり、稲作が始まった時代には里に下っていったと思われます。付近に稲作ができそうなところは見当たりません。したがって縄文時代からの霊地であったと考えるべきかと思います。
となると、なぜここに十握の剣の神霊を祀る必要があったのかということが謎となります。そもそもスサノオ神が十握の剣で大蛇を斬ったのは斐伊川の上流、相手はともかく現場がそこであったとするなら当社は60~80kmほどでしょうか離れた地。一つ興味深いことがあります。
日御碕神社、当社、伊弉諾神宮、花窟神社(はなのいわやじんじゃ)が一直線で結ばれます。日御碕神社は天照大神とスサノオ神を祀る神社ですが、スサノオ神が天照大神を見下ろす格好で鎮座、スサノオ神の神霊を鎮めた社という理解も可能。伊弉諾神宮はイザナギ神、花窟神社はイザナミ神の墓所があるとも伝わる社。真実かどうかはともかくイザナギ・イザナミ神はスサノオの父母神。伊弉諾神宮を除きいずれも磐座をご神体とする社です。伊弉諾神宮にもあるのかもしれません。偶然の一致だけでは済ませられないように思っています。
なお当社より10kmほど北東に「血洗いの滝」というものがあり、剣を洗ったという伝承が残っています。

一の鳥居。ここから100m余り上ると駐車場へ。

第4駐車場前からの参道。3~4分程度の簡単な登山が必要。