(忍熊皇子社)



【古事記神話】香坂王・忍熊王の反乱 (~その2)



◎反乱を企てた香坂王と忍熊王兄弟ですが、兄の香坂王は「うけひ獦(狩)」により猪に食い殺されます。弟の忍熊王は進軍します。

以下、(~その1)からの続き。



この時忍熊王 難波の吉師部の祖 伊佐比宿禰を将軍とす 太子の御方は丸邇臣の祖 難波根子建振熊命を将軍とし給ひき

【補足】
忍熊王軍の将軍→伊佐比宿禰(難波吉師部の祖)
誉田別皇子軍の将軍→難波根子建振熊命(丸邇臣の祖)
丸邇臣とはワニノオミのこと。つまり和爾氏(和珥氏)。


彼れ追ひ退けて山代に到りし時 還り立ちて各退かず相戦ひき ここに建振熊命権りて 「息長帯日売命は既に崩りましぬ 彼れ更に戦ふべきことなし」た云はしめて 即ち弓絃を絶ちて 欺陽りて帰服ひき ここに其の将軍既に詐を信けて弓を弭し兵を蔵めき ここに頂髪の中より設弦を取り出し 更に張り追ひ撃ちき

【補足】
またまた「罠」を仕掛けました。そして忍熊王はまたまた「罠」に引っ掛かりました。今度の「罠」は神功皇后が崩御したというもの。
山代国まで追い詰めたものの、忍熊王が盛り返し拮抗。その打開策として「罠」に嵌めたようです。
難しい漢字が並んでいますが、大まかには「皇后が崩御したので戦う必用が無くなった」と武器を引っ込め降伏。忍熊王はまんまと騙され武器を収めたところ、誉田別皇子軍はまた武器を取り出し追撃。
なんともまあ汚いやり方ですが、神武東征や日本武尊の平定神話などにも汚い手口が載せられています。


彼れ逢坂に逃げ退きて 対ひ立ちてまた戦ひき ここに追ひ迫めて 沙々那美に敗り悉くにその軍を斬りつ

【補足】
騙された忍熊王軍はもちろん敗走一辺倒。まず「逢坂」に逃げたとありますが、場所は不明。河内国との境にある大和国の「逢坂」でしょうか。「沙々那美」は紀の記述から近江国滋賀郡の栗林ということが分かっています。


ここにその忍熊王と伊佐比宿禰 ともに追ひ迫めらへて 船に乗り海に浮かび歌ひて曰く
「いざ吾君 振熊が 痛手負はずは 鳰鳥の 淡海の海に潜きせなわ」
と歌ひて 即ち海に入りてともに死にき

【補足】
ついに最期を迎えました。悲劇のヒーローらしく振熊命に痛手を負わせず、自ら入水しようと。
(~その1)でも記しましたが、本来は兄の香坂王が皇位継承者の第1位、弟の忍熊王が第2位、誉田別皇子は第3位(最下位)であったはず。勝者の歴史書の記述です。
「鳰鳥(にほどり)」はカイツブリのこと。琵琶湖など淡水に生息する鳥。餌を採るためか頭から潜る仕草が、入水とかけているように思います。


奈良市に「押熊町」という地名が残されています。
忍熊王・香坂王の出身地とする説が有力。二王の舊跡地があります(後ほど記事を上げます)。ちなみに隣は「神功」という地名、その南方には神功皇后の治定墓が築かれています(記事未作成)。