☆ 津堂城山古墳 (藤井寺陵墓参考地)



河内国丹比郡
大阪府藤井寺市津堂
(P無し、徒歩10分足らずに30分無料の「藤井寺市立ふじみ緑地駐車場」有り)



■形状
前方後円墳
*二重の周濠有り
■全長
208m(墳丘長)
*全国31位の規模
*周濠を含めると400m以上(藤井寺市は436mとしているのですが)
■築造時期
4世紀後半
■埋葬施設
竪穴式石室
長持型石棺
■出土品
水鳥型・衝立型・家型・靫型・楯型等埴輪、鰭付円筒埴輪、さしば形埴輪
銅鏡、玉類、鉄鏃等
■周辺の状況
「古市古墳群」内
■被葬者
第19代允恭天皇の陵墓参考地



世界文化遺産「古市古墳群」の構成資産の一。
国の史跡にも認定。

第19代允恭天皇の「陵墓参考地」とされており、宮内庁管轄。
ただし後円部以外は登拝可。津堂神社(後ほど記事UPします)や花しょうぶ園、子供公園が墳丘から裾(周濠部分)にかけて設けられています。

築造時期は4世紀後半と、「古市古墳群」内では最古級。規模や出土品から大王級墓と見られます。

ところが4世紀後半となると、第15代の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)よりも古いものとなります。明らかに第19代允恭天皇のものとは違います。

そしてこれは先行する「佐紀盾列古墳群」と時期が重なります。つまりちょうど移行期の大王墓と考えられます。

藤井寺市サイトにはとても興味深いことを示されています。
━━巨大な前方後円墳では、新しく造られるときには前代になかった要素が加えられ、逆に古い要素を棄てていく傾向が見られるのです。
たとえば、津堂城山古墳では、造出しや二重の周濠・周堤といった新企画を実現しています。言葉を換えると、巨大古墳は常に新しい装いを凝らして登場するということなのです━━

さて…真の被葬者なのですが。

「敢えて」中の「敢えて」を提唱しておきます。
第14代仲哀天皇です。

非実在天皇として名高い天皇ですが。

「非実在」などと簡単に切り棄てること自体に、大いに疑問を感じます。
神代の時代ならともかく、「正史」に登場するのに…。

そもそも他に誰がいるのか!
「正史」には登場しない天皇(大王)がこの時代にいたのか!

それが明示されない限りは、仲哀天皇以外にあり得ないと考えます。

あまりに精巧な水鳥型埴輪が、日本武尊の子であることを連想せずにはいられないのですが。










さすがに後円部は禁足地となっています。

津堂八幡宮(後ほど記事UPします)のご本殿背後から後円部を。