☆ 應神天皇惠我藻伏崗陵 (誉田御廟山古墳)
(えがのもふしおかのみささぎ)
(こんだごびょうやまこふん)



河内国志紀郡
大阪府羽曳野市3・5・6丁目
(拝所Pは開放されているかどうか不明、誉田八幡宮からは境内P利用)



第15代応神天皇の治定墓。
隣に誉田八幡宮が鎮座することから治定は間違いないかと思われます。

全長425mと全国第2位の規模(大仙陵古墳は486m)。表面積や体積もわずかな差で全国第2位。「古市古墳群」の中核を成し、平面は一枚の写真には収まりません。

二重の周濠…培墳指定は5基…

円筒埴輪は2万本以上…多種多様な形象埴輪が立てられ…と世界文化遺産に相応しいもの。

古墳の概要等の詳細は割愛します。
「河内名所圖會(図会)」に載せられる写真(下部に掲載)と説明文を紹介しておきます。

━━陵上に近年 六角の宝殿を建てる 外側にも亦た六角の塗塀を立たり…(中略)…陵道一町計 左右に桜を植て 石灯炉二十基 其の下に宣命場中門あり これより雑人陵上へ登る事を禁ず 過って昇る時は神祟あり 四辺に古松繁茂し赤土壺 山陵に多く陻(うず)めり 蓋しこれは殉死の代わりとして官人の名をしるしてこゝに埋む 一説にはこ
れに雨水を湛(たた)えて山陵の崩れざる容易と聞こへし━━

墳丘頂に「六角の宝殿」などという仏教施設が建てられたようです。そして誉田八幡宮からその施設までの道が整えられ、道の左右両端に桜が植えられ石灯籠20基が立てられたと。確かにその通りの絵になっています。

この仏教施設は幕末の国学による尊皇思想により一掃されたと伝わっています。

その下に門があり、一般人はそこから先へは禁足地となっていたとのこと。進めば「神祟」があると。「赤土壺」とは円筒埴輪のことと思われます。

最後に山陵が崩れるのは容易であった…つまりよく崩れたと記されます。どうやら活断層の上に古墳が築かれたとのこと。

*写真は2019年10月と2022年3月撮影のものとが混在します。


こちらが「河内名所圖繪(図会)」。