多坐弥志理都比古神社
(おおにますみしりつひこじんじゃ)


大和国十市郡
奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569
(境内P有)

■延喜式神名帳
多坐彌志理都比古神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗 の比定社

■旧社格
県社

■祭神
神倭磐余彦尊
神八井耳命
神沼河耳命(綏靖天皇)
姫御神(玉依姫命)
太安万侶


古事記の編纂者、太安万侶を輩出した多氏が祖神であるカムヤイミミ神と、さらにカムヌナカワミミ神を祀った神社だとされています。
◎カムヤイミミ神は弟カムヌナカワミミ神に皇位を譲り、自らは神祇を祀ったとされます。これが当地のことであり、具体的にはご本殿後方の小さな塚状の場所とされます(詳しくは後述します)。ここで神籬磐境を立てて神祇を祀ったのであろうと。
カムヤイミミ神やカムヌナカワミミ神の神名が古記録などに登場するのは明治時代以降。カムヤイミミ神が皇位をカムヤイミミ神に譲ったので「ミシリツヒコ」神とするなどとしていますが、後世の付会でしょう。
◎大和盆地の中央、水源にも恵まれた絶好の稲作地帯。農耕神として祀られた、もしくはそのための日神を祀ったと考えるのが順当でしょうか。
◎ご祭神については諸説ありさまざまに展開されています。「和州五部神社神名帳大略注解」(室町初期)には、「水知津彦神(ミシリツヒコノカミ)」と「火知津姫神(ヒシリツヒメノカミ)」としています。
◎また「多神宮注進状」などの当社の古資料では「珍子 賢津日霊神尊(ウツノミコ サカツヒコノミコト) 皇像瓊玉坐=河内国高安郡春日部坐宇豆御子之社と同神」と「天祖 賢津日靈神尊(アマツオヤ サカツヒメノミコト) 神物圓鏡坐=河内国高安郡春日部坐天照大神之社と同神」と記されています。そして具体的な神名として「珍子」=天忍穂耳尊、「天祖」=天疎向津媛尊(アマサカルムカツヒメ=天照大神の荒魂)としています。日の御子と母の母子神ということ。稲穂の神とそれに重要な日の神と、ということのようです。
なお「河内国高安郡春日部坐宇豆御子之社」は恩智神社の境内末社 天川神社(ご祭神/春日部大明神)、「河内国高安郡春日部坐天照大神之社」は天照大神高座神社のことであろうと思われます。
◎これらとは別に本来のご祭神は椎根津彦神(倭宿禰)ではないかという考えを 持っています。

◎当社は「三輪山」山頂と「二上山」の二山の間とを結ぶ直線上にあり(いわゆる「太陽の道」の線上)、日祀りの場であったことは十分に考えられること。しかもそのちょうど真ん中。
春秋分の日には、朝日は「三輪山」山頂から登り夕日は「二上山」の2山のちょうど間に沈む、そしてちょうど畝傍山の真北に鎮座。これ以上はない日祀りのロケーション。具体的な神名を充てず日神を祀ったと考える方がいいのかもしれません。当社のかつての祭礼は旧暦の春分の日であったこともその要素の一つ。
◎往古は大規模な社領を誇ったようで、神戸は大神神社の2.5倍もあったとか。こちらも農耕神を祀る傍証の一つ。かつては42万㎡(現在は1万㎡)。
◎本殿の後方、草やぶ内に円丘があり「神武塚」と呼ばれています。古代中国史書に「円丘に天神を祀り丘に地祇を祀る」とあります。この円丘の後方に微かに方丘が見られるようで、多神社縁起書にある「祭神 神武天皇御子 神八井耳命 この地に降りて天神地祇を祀る」に合致します。古代の日を祀る神籬(ひもろぎ)跡でしょうか。
周辺の川を中心に縄文、弥生、古墳時代のものが出土、特に祭祀に用いられたと考えられるものが多いとか。
◎当社の周りにはかつての境内社であったと思われる社が鎮座しています(いずれも式内社)。







四殿が居並ぶ壮麗なご本殿。


こちらが円丘とその前に建つ祠