(大和国山邊郡 大和神社)




◆ 椎根津彦命(倭宿禰)考 ~1





この記事はこれまで当ブログ内で行ってきた一般的な神名紹介記事とは異なり、個人的思量を綴る記事とします。


一般的な「椎根津彦」の紹介記事は

→ こちらの記事にて




日頃より、あまりに根拠薄弱な論文や研究書等をこき下ろしていますが…


例えば…関裕二氏など…。

(最近は多少勉強もなされているようですが)


自身のこととなるとまた別問題で、


世間にはまったく影響力の無い…1記事につき100件程度の閲覧に終わるようにしているし…


これでお金儲けをしているわけでもないし…


ま…ええかと(笑)



そもそも古代の研究なんて、妄想の上に妄想を幾重にも積み重ねて出来上がっている学問のようなものですから。


盛大に妄想を積み上げてやりましょう!



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恒例の長い前置きとなりました。

ええ加減に始めます。


時代は弥生末期。

壮大なスケールのものとなります。


知ってるあの神社も!

聞いたことあるあの神も!


…とんでもないお話となります。



かなりの長文となります。

最後まで読み切られる方はほとんどおられないでしょうが、もしそのような奇特な方がおられましたらこの上なく嬉しい限り!


ご質問は初歩的なものから喜んでお受け致します。逐一、しつこくご質問頂いても喜んで!



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(丹後国 籠神社境内の「倭宿禰像」) *現在は撮影禁止



「椎根津彦」という神については昨日記事を上げ紹介しました。ごく軽くおさらいをしておくと、神武東征時に瀬戸内の「速吸門(はやすいのと)」で出会い水先案内人に。大和入り寸前でも活躍を見せ、平定後は倭国造に任命されました。


「速吸門」は一般に「豊予海峡」(大分県と愛媛県の間)とされますが、これは紀の記述からの比定。記の記述に従えば「明石海峡」付近となりますが、あまり有力視されていません。ところが当記事では「明石海峡」の方を採用します。「明石海峡」でなければ成り立たないため。理由は後述します。


当記事では以下の推測をします。

* 椎根津彦命は倭宿禰と同神である

* 椎根津彦命は神武東征以前は大和を拠点としていた

* 椎根津彦命は大和の大王に近いレベルの神であった、そして日本の大王に近いレベルの神であった

* 椎根津彦命は「日本大國魂神」のことである


「勘注系図」においては、椎根津彦命は倭宿禰と同神であるとしています。「勘注系図」とは籠神社(このじんじゃ)の社家である海部氏(アマベノウジ)に伝わる「海部氏系図」の一つ。「本系図」と「勘注系図」(ともに俗称)の二つから成ります。国宝指定。

記紀神話と異なる記述が多く見られる「海部氏系図」は信憑性が低く、国宝指定されたことに疑問を抱く人までも。ところが当記事ではすべてを信用しないまでも、大方が史実であると考え進めていきます。従って椎根津彦命と倭宿禰は同神であるとします。


「勘注系図」において倭宿禰は、「彦火明命(始祖)━建位起命(タケイタツノミコト)━倭宿禰」という系譜になっています。また別に「彦火明命━彦火火出見命━建位起命━倭宿禰」とも記されます。

つまり建位起命の子であると。そして母は伊加里姫であるとされます。この伊加里姫については従来よりブログ内で、神武東征時に大和国吉野で出会った井光姫(井氷鹿、イヒカ)と同神ではないかという説を上げています。こちらでは同神であると断定し進めていきます。


同神であるとする根拠は以下の通り。

* 「井光」は「イカリ」とも読める、実際に地名は「イカリ」。

* 井光姫の父は白雲別命としている(大和国葛下郡に鎮座する長尾神社)が、「丹後風土記殘缺」において伊加里姫は「白雲山 北郊の眞名井の霊泉の傍らに祀られる」とある(→ 笠水神社)

* 「殘缺」には伊加里姫の別名を「豊水富」としている、「新撰姓氏録」において井光姫の別名を「豊御富」としている

* 井光姫は吉野首(ヨシノノオビト)の祖であるとされるが同じく祖とされ神武東征時に磐を押し開いて現れた石穗押別命が採鉱のために押し開いた穴ではないかと考えられる、一方で伊加里姫の子は倭宿禰であり鍛冶神である天御蔭神と同神とされる、双方ともに鍛冶神である

* 井光姫は井水から現れたとされるが、伊加里姫の祀られる笠水神社眞名井の霊泉の傍らに祀られる、また伊加里姫の孫は息長水依比売であり「水」に関わる氏族である(→ 彌加宜神社)


以上のように酷似または関連を想定させる項目があまりに多く、同神と断定する次第。そして時系列から鑑みて大和国吉野から丹後国へ移住したと考えます。






このように見ると倭宿禰(椎根津彦命)は大和国で生まれたのではないかと考えられます。神武東征軍が未踏の吉野の深い山奥を通って来られたのは、八咫烏の先導があったからとされますが、案外、倭宿禰が先導したからかもしれません。わざわざ寄り道してまでも井光姫の元へ出向いたのは、倭宿禰(椎根津彦)の故郷であるからという考えも。ところが実は、八咫烏=倭宿禰(椎根津彦)という説も考えているのですが(後述します)。


また倭宿禰(椎根津彦命)はこの後、東征軍の大和入りまでに2度にわたり活躍シーンが見られます。いずれも地元情報に長けた者だからこそ成し得たのではないかと思われるのです。


一つ目は敵軍が陣取る最中を、弟猾(オトウカシ)とともに老夫婦に変装して「天香具山」の土を採取しに行く場面。椎根津彦は卑しい服に簑笠を纏い老人に、弟猾は簑を纏い老婆に。敵軍兵士に「大醜乎大醜!」と大笑いされ道を開けてくれたと記されます。地元民の弟猾同伴とはいえ、椎根津彦も地元民だったのではないかと疑うわけです。


二つ目は軍備を整えた弟磯城軍と対峙する場面。男坂・女坂・墨坂と進路すべてが塞がれた状況。墨坂へ女軍(少数軍)を進めて敵軍がそちらから攻めてくると思わせ、敵の精鋭軍がそちらへそちらへ向かったところを、背後から攻めて挟み撃ちにするという策を天皇に進言したのが椎根津彦。こちらも地元情報を知り尽くしていたからこその作戦進言ではないかと疑うわけです。


井光姫は大和国葛城(葛木)の長尾神社にて、「水光姫」として祀られています。伊加里姫は天村雲命(彦火明命の子)との間に葛木出石姫を生んでいます。「葛木」はやはり「葛城(葛木)」であり、「出石」は但馬国の「出石」であろうと思われます。但馬国は丹波国から丹後国とともに分割された国。海部氏の勢力圏でもあります。神名からおそらくは両地域出身の血を引くことが導き出されます。



(大和国葛下郡 長尾神社)


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さて…


上述の「勘注系図」にはおかしい部分があるのです。触れずに進めてきましたが、ここで触れることにします。先ずは再掲します。

* 彦火明命(始祖)━建位起命(タケイタツノミコト)━倭宿禰

* 彦火明命━彦火火出見命━建位起命━倭宿禰


肝心の天香語山命と天村雲命が抜け落ちているのです。籠神社の社家である海部氏が、その創祀に関わったという神々を記していないのです。籠神社の祭祀の根源である二柱、この二柱が存在せねば籠神社が存在しないという極めて重要な二柱が抜け落ちるなどということがあるのでしょうか。これは意図して抜け落ちさせたに違いありません。


籠神社の祭祀の起源は奥宮 眞名井神社にあります。そのあらましは以下の通り。

━━二代目天香語山命が天地を繋げる「天眞名井の水」を起こし通し、さらに「天磐境」を起こし豊受大神を祀った。そしてこの眞名井の地に泉が涌き出て「匏(ひさご、=ひょうたん)」が生え、三代目天村雲命が匏に眞名井の水を汲み神前に供えた━━
もちろん初代は彦火明命。このようにして眞名井神社において創祀がなされ、二十七世の海部直千嶋の時に籠神社創建に至りました。

もう一つおかしな点があります。系図では倭宿禰は建位起命と伊加里姫との間の子となっています。長尾神社の項の所で記したように、こちらでは倭宿禰は天村雲命と伊加里姫との間の子となっています。「勘注系図」にも天村雲命の后が伊加里姫と記されています。
考えられるのは二つ。一つは天村雲命=建位起命。もう一つはどちらかが間違えている、つまりは天村雲命の子なのか建位起命の子なのかのどちらか。これについてはまだ勉強不足、結論を出すには至っていません。


(丹後国 眞名井神社) *現在は撮影禁止


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神武天皇が大和平定を成し遂げ即位後に、椎根津彦命(倭宿禰命)は「倭国造(やまとのくにのみやつこ)」に任命されています。ところがこの時代に「国造」というものは存在しません。従ってそれらしき職を与えられたのであろう、或いはこの記述そのものを神話上のものとしバッサリと切り捨てているものですら。
当記事ではそれらしき職を与えられたとして進めていきます。厳密に言うと与えられたのではなく、支配領域がおおよそ定められたと考えており、その前提で進めていきます。

この「倭」が意味するエリアは一体、どこからどこまでなのでしょうか。神武天皇が大和平定を果たしたのは「磐余(いわれ)」近辺。桜井市西部ですが、一部橿原市東部を含んでいるかもしれません(明確な区切りはない)。「天香具山」の東部でもあります。大和国十市郡に含まれます。紀には「磐余邑」とは、磯城八十梟帥(しきのやそたける)軍が「屯聚居(いわみい、=満ちていた)」からと地名説話を上げています。神武天皇の紀での名は「神日本磐余彦天皇」となっています。この周辺は神武天皇の勢力圏だったのだろうと思います。

即位後に天下を治めたという地は、以下のように記されています。
* 紀 … 「橿原宮(かしはらのみや)」
* 記 … 畝火(うねび)の「白祷原宮(かしはらのみや)」
具体的な場所は葛上郡の神武天皇社の周辺であると個人的に比定しています。古来より活発に議論がなされ、橿原神宮がその比定地ということで収まりましたが、これは甚だしい見当違いもいいところ。紀には「畝傍山東南の橿原…」とありますが。
神武天皇社は「葛木(葛城)」の東端に位置します。「葛木(葛城)」の主要部からは乖離した地。東隣の高市郡までが実質の神武天皇の勢力圏だったと考えます。道が空いていれば車で10分もあればすぐに抜けられる地。あまりに狭い範囲と言わざるを得ませんが。なお「磐余」地区での神武天皇の痕跡は見られず、すぐに移動したと思われます。





この西側「金剛山地」は鴨族の勢力圏でした。「金剛山地」とは「高天山(金剛山)」「大和葛城山」「岩橋山」「二上山」と続く、大和盆地西側の南北に連なる山々のこと。葛上郡・葛下郡に属します。

その葛下郡の東部に長尾神社は鎮座します。こちらはやはり「倭」の勢力圏と思われます。

葛上郡と十市郡の間には高市郡があります。こちらは東征時に活躍した大伴氏や久米氏に与えられました。大伴氏には「築坂邑(つきさかむら)」が与えられています。こちらは「畝傍山」の南西、現在の橿原市鳥屋町付近。久米氏は「畝傍山の西の川辺の地」が与えられています。ところが久米氏が拠点としたのは「畝傍山」南東麓。そこには氏寺である久米寺があります。おそらくは神武天皇の「橿原宮」を含めて混乱が生じているのではないかと。


また大和盆地東部に戻り、十市郡の東側は城上郡となります。東征軍の最終決戦の地となり、神武天皇が即位後に「大孝」を述べた(史上初の「大嘗祭」)という等彌神社が鎮座します。その北側は「三輪山」。
この辺りは志貴(師木)縣主に任せたのであろうと思います。「三輪山」の南麓に志貴御縣坐神社が鎮座しているのがその証。志貴縣主は東征時に活躍した弟磯城が任命されました。紀の本文においては、第2代綏靖天皇から第5代孝安天皇の5代、第7代孝霊天皇の計6代にわたり后妃を輩出しています。

「三輪山」の東部、いわゆる「隠口(こもりく)」と称される地に「小夫(おおぶ)」があります。小夫天神社が鎮座する地。かつては「多部」であったとされ、多氏が拠点としていたとされます。後ほど記すように多氏は椎根津彦(倭宿禰)と繋がると考えられます。

「隠口」の辺りは、豊鋤入姫命が天照大神の御霊代を奉斎した「倭笠縫邑」の有力候補地。まったく関係が無いとは言えないように思います。


(大和国山邊郡 大和神社ご本殿)



城上郡の北側は山邊郡。その南端に大和神社(おおやまとじんじゃ)が鎮座します。倭国造に任じられた椎根津彦(倭宿禰)、後裔は大倭氏と名乗り、市磯長尾市(イチシノナガオチ)が初代神主に任じられました。こちらが「倭」の中心地であると言えると思います。大和神社は後半でたっぷりと触れることになります。だからこの記事の冒頭を大和神社の拝殿の写真で飾りました。
山邊郡の中部以北には痕跡を見出だすことはできません。物部氏や和珥氏(ワニノウジ)が拠点としたのはずいぶん後の時代のこと。北限は探りようもありません。

この記事を起こすに当たり、自身の過去の記録は基より、多くの文献や研究書を探っています。そしてすっかりと忘失していたことが甦りました。


(大和国十市郡 多坐弥志理都比古神社)



中断しましたが山邊郡の西側は城下郡や十市郡。城下郡は現在の磯城郡。田原本町・三宅町・川西町が含まれます。大和盆地のちょうどど真ん中、「国中(くんなか)」などとも呼ばれます。十市郡は南北に細長く広がっています。北は城下郡のすぐ近くまで、南は城上郡よりもまださらに南部まで。
この城下郡から十市郡の北部にかけて、広大な神域を抱えて鎮座するのは多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)。かつては大神神社よりも広大な神域を有していました。「三輪山」山頂と「二上山」の谷間を結んだライン上に鎮座、つまりは「太陽の道」上に鎮座する「日祀り」の聖地。この地から見て「三輪山」山頂と「二上山」から陽が昇れば、春は稲作開始(田植え)、秋は収穫の合図となります。この合図で大和盆地では百姓が一斉に作業に取りかかりました。もちろん地域の長たちが一同に集まり、神事を行ったであろうことは想像に難くありません。そういう大変に重要な役割を担った社。
ところが本来のご祭神はよく分かっていません。「延喜式神名帳」には「多坐彌志理都比古神社 二座 並名神大」とあります。社名から鑑みて、一座は「弥志理都比古神(ミシリツヒコノカミ)」が本来の神であったということが窺えるものの、記紀等その他文献にはまったく登場しない神。もう一座は手掛かりすら無し。

この謎の神に椎根津彦命(倭宿禰)を宛てるという、大胆な発想があったのです。これは谷川健一氏によるもの。あまりに突飛であるがため、これまで心に落ちることはなかったもの。ところが15年ほどの歳月を経て今ようやく落ちてきました。


椎根津彦命の別名として宇豆彦命(珍彦命、ウヅヒコノミコト)が上げられ、倭宿禰を同神としているのが籠神社の社伝。これらとは別に「神知津比古命」という別名があると、「新撰姓氏録」や籠神社の社伝において上げられています。読みは籠神社先代宮司 海部光彦氏は「カンノシリツヒコ」としておられます。「神」は「ミワ」とも読めるので、「ミワシリツヒコ」とでも読むこともできるのでは?そうすると「弥志理都比古(ミシリツヒコ)」とあまりに酷似するのです。


この仮説を固めていくための証拠を上げていかねばなりません。文献等から拾おうとするもごく限られたもののみ。証拠とまでは到底及ばないものの、可能性があるかなというもの。

「多神宮注進状」(久安五年、1149年)には、「珍子 賢津日霊神尊(ウツノミコ サカツヒコノミコト) 皇像瓊玉坐=河内国高安郡春日部坐宇豆御子之社と同神」と「天祖 賢津日靈神尊(アマツオヤ サカツヒメノミコト) 神物圓鏡坐=河内国高安郡春日部坐天照大神之社と同神」と記されています。具体的な神名として「珍子」=天忍穂耳尊、「天祖」=天疎向津媛尊(アマサカルムカツヒメ=天照大神の荒魂)としています。

「注進状」とは上部機関に提出した文書のこと。「多神宮注進状」は「延喜式神名帳」から200年余り後のもの。
注釈は差し置いて「珍子」と「天祖」の二座となっています。椎根津彦命の別名「珍彦命」と酷似しています。「天祖」とは彦火明命のこととなるのでしょうか。

多坐弥志理都比古神社は多氏が奉斎したとして知られる社。「新撰姓氏録」には「左京 皇別 多朝臣 出自諡神武皇子神八井耳命之後也」とある氏族。神武天皇は大和平定後、事代主の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を娶り、彦八井耳命(ヒコヤイミミノミコト)・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)・神渟名川耳命(カムヌナカワミミノミコト)が生まれています。つまり第2皇子。第3皇子の神渟名川耳命が第2代綏靖天皇に即位しています。多氏はその第2皇子 神八井耳命の後裔であるということに。

谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、多氏は青海氏に通ずるとしています。「おお(おう)氏」は「おうみ氏」と繋がりをもち多氏一族であると。その青海氏が奉斎したというのが、若狭国の青海神社や越後国の青海神社(未参拝)など。椎根津彦命(倭宿禰)は青海首の祖とされているのです。
若狭国の青海神社には飯豊青皇女(天皇)の「禊池」があります。また当地には飯豊青皇女(天皇)の「御名代」があったとされます。「御名代」とはヤマト王権直属の部民のこと。飯豊青皇女(天皇)は大和国忍海郡を拠点としました。忍海郡は葛上郡と葛下郡に挟まれた小さな郡、その宮跡とされるのが角刺神社。近くには飯豊天皇埴口丘陵も築かれています。
ちなみに谷川健一氏は多坐弥志理都比古神社の境外摂社である式内社 姫皇子命神社のご祭神を、飯豊青皇女に宛てています。


現状上げられるのは以上。傍証とは成り得ても確証には程遠いもの。ですがこの説を採用し、その前提で進めていきます。

結局のところ「倭国造」の「倭」とは、山邊郡南端の大和神社を中心に、大和「国中(くんなか)」である十市郡・城下郡、西は葛下郡の一部・忍海郡までを指すと結論付けます。つまり椎根津彦(倭宿禰)大和盆地のど真ん中から幅広く拠点としていたと考えます。まさしく「倭」と呼ぶに相応しい地であり、大王レベルで君臨していたかと思います。