志貴御縣坐神社
(しきのみあがたにますじんじゃ)


大和国城上郡
奈良県桜井市金屋896
(P無し、鳥居前に通行の邪魔にならない程度に停めています)

■延喜式神名帳
志貴御縣坐神社 大 月次新嘗の比定社

■旧社格
村社

■祭神
大己貴命


大和の六御縣社の一座、「三輪山」の南麓に鎮座する社。当地は志貴県主の本貫地であると思われ、また崇神天皇「磯城瑞籬宮跡」(しきのみずがきのみやあと)とも考えられている地。
◎ご祭神は「神社明細帳」では大国主命としているものの、志貴県主の祖神である天津饒速日神、または弟磯城(オトシキ)が祀られているとする方が有力。
◎磯城(志貴、師木、志紀)県主は「新撰姓氏録」によるとニギハヤヒ神の孫神 日子湯支命(ヒコユキノミコト)の後とあります。また「先代旧事本紀」にはニギハヤヒ神の七世または八世孫の後とあり、一定していません。紀、「先代旧事本紀」ともに神武天皇に帰順した弟磯城を磯城県主としたとあります。
◎弟磯城は、神武東征において最終の激戦前に懐柔され帰順。そのおかげもあり皇軍は兄磯城(エシキ)軍を撃破。そしてニギハヤヒ神が長髄彦神を討つことで皇軍は大和平定を遂げました。弟磯城はその功で磯城県主に任じられています。
◎記紀に登場する最初の豪族。第2代綏靖天皇から7代孝霊天皇まで妃を出しており、古代の中枢を担っていたのでしょうがよく分かっていないというのが現状。大物主神を祖とするという説もあります。
◎これほどの有力な豪族であったために、この地に社を設けることができ、また崇神天皇の「磯城瑞籬宮跡」(推定地の一つ)があったのかもしれません。現在はほとんど訪れる人もなく寂れきり、いつまで社殿等が残るのか心配ではありますが。

*写真は過去数年にわたる参拝時のものが混在しています。





ご本殿


磐境跡と考えられています。

上の写真を俯瞰にて。4体の磐がキレイに配列されています。

ご本殿左(向かって右)にある石碑、または磐座らしきもの。



上の写真を反対側から撮ったもの。

ご本殿の真裏。これこそが御神体のように思います。

ご本殿背後を探ると磐座らしきものが散在していました。