角刺神社
(つぬさしじんじゃ)


大和国忍海郡
奈良県葛城市忍海322
(境内に駐車可)

■旧社格
村社

■祭神
飯豊青命


飯豊青皇女(飯豊天皇)の「忍海角刺宮(おしぬみつぬさしのみや)」が営まれたという地に鎮座。「大和葛城山」の東側平坦地に位置します。
◎「角」は「葛」に通じ、「刺」は「城」に通じるとのこと。つまり「葛城」ということ。飯豊青皇女は葛城襲津彦の血を引き(曾孫)、この「葛城」の地で宮を営みました。往時はかなり立派な宮殿であったようで、紀の顕宗即位前記に「倭邊也(やまとべに) 見まほしものは 忍海の この高城 名は角刺宮」とあります。
◎この「忍海」(おしみ・おしみぬ)という地は、葛城襲津彦が新羅から捕虜として連れ帰った渡来人たちの居住地。飯豊青皇女が率いていたと考えられます。
◎飯豊青皇女には皇位を継承していたとする説があります。これは皇位継承最有力者であった父の市辺押磐を大泊瀬皇子(雄略天皇)が殺害し即位、身を按じた御子の弘計王・億計王兄弟が丹後・播磨へ隠棲していたものの発見されともに即位しますが、そのわずかな間に姉の飯豊青皇女が即位していたというもの。
◎つまり雄略天皇そして次代の青寧天皇の後、発見された弘計王が即位し顕宗天皇となる間に、飯豊青皇女が即位していたのではないかと。北北西700~800mほどには「埴口丘陵」が築かれていますが、こちらは「飯豊青天皇埴口丘陵」と宮内庁がしています。つまり宮内庁は天皇であったとみなしているということに。「扶桑略記」にも「飯豊天皇廿四代女帝」と記されます。なお在位は10ヶ月ほど(異説あり)。

◎社前には飯豊青皇女が姿見をしたという「鏡池」が残されています。こちらも往時はかなり広い池であったとか。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。






飯豊青皇女が姿見をしたとされる社前の「鏡池」。往時は数倍もの大きさであったとか。