彌加宜神社 (大森神社)
(みかげじんじゃ)


丹後国加佐郡
京都府舞鶴市森字井根口871-7
(P有り、東側から進入し境内へ)

■延喜式神名帳
彌伽宜神社の比定社

■旧社格
府社

■祭神
天御影大神
誉田別大神


東舞鶴の市街地内、不相応な豊かな樹叢に覆われた社。通称「大森神社」はこの「大きな森」に対してのものかと思います。「丹後風土記」殘缺には「杜坐彌加宜社」と記されます。
◎当社を一言で記すなら「森と水と金属の社」。丹後の歴史を考える上で外すことのできない重要な社の一つであるものの、またこの社の由緒等はベールに包まれています。以下自身の思量も踏まえて当社を。
◎創建は崇神天皇の御代、丹波道主命が天御影大神を祀ったものとされます。「丹後風土記」殘缺には「丹波道主命の祭り給ふ所也 杜中に霊水有り世に杜清水と号く」とあります。「杜清水」とはご本殿の際にある池であると(下部に写真有り)。社頭案内には「杜清水」の上に社殿が建てられていることに対し遺憾であるとしていますが、現在あるのは社殿の際。往時とは様相が違っているのかもしれません。
◎ところが「倉梯村誌」という書によると、「始め現時の行永小字弥伽宜谷に奉祀せられしが…(中略)…再遷三遷遂に現神域に奉祀せられたりとの説あれど(以下略)」とあるようです。つまり遷座された可能性があるとのこと。時期は8世紀以前のこと。
そしてこれを史実とするなら、「杜清水」は旧社地にあったことになります。あるいは旧社地とはさほど離れておらず、旧社地においても「杜清水」においても、ともに祭祀が行われていたのでしょうか。
◎「行永」の「弥伽宜谷」については詳細不明。ところが現在も「字行永」という地名が残っていますが、当社の東方と南方にわずかに繋がった状態で分かれています。東方の中でも東側と南方の中でも南側辺りが山手になります。
該当しそうな「社」が存在するのが藤森神社。由緒等に関して彌加宜神社との関連には一切触れられていないものの、社名に「森」が含まれます。住所も「字行永弥加宜」。当社からはほぼ真南に2kmほど(綿密な方角の調査は行っていません)、ここから先は南丹市まで数十kmは山間部。その北端の中腹に鎮座します。現地を訪れた限りは「谷地」と呼ばれるに相応しい地と言えるかと。古代の2kmの隔たりであれば、一連のものと考えてもいいのかもしれません。
◎「水」と「森」ときて最後に「金属」。
社頭案内板には「舞鶴ではめずらしくも金属の神社と公認されている」と記されます。その根拠については記されていないものの、金属鍛冶神である天御影神を祀っていることから、そう捉えていいものかと思われます。近江国の御上神社の系統であり、丹後においてはこの系統の神社はわずか4社しかないとも。御上神社とはどういう繋がりがあるのかは示されていません。
◎天御影神は天目一箇神(アマノメヒトツノカミ)と同神とされる鍛冶神。また天照大神の天岩戸神話で、鍛冶を行った天津麻羅とも同神とされます。
天津彦根神(天照大神とスサノオ神との誓約で生まれた神々)の御子。天御影神の娘である息長水依比売と彦坐王との間に生まれたのが丹波道主命。つまり当社は丹波道主命が祖父を祀った神社と言えます。また息長氏も製鉄鍛冶氏族。
なお上記の地名「行永」は、「息長(おきなが)」からの転訛ではないかとみています。
◎当社は「蛇切岩伝説」に関わる一社。これは「東舞鶴」東部の「与保呂川」上流山間地帯に伝わる伝説。


*写真は2017年11月と2022年4月撮影のものとが混在しています。


参道はかなり長いものですが、市街地内ということを考えると往古は現在よりもまださらに長かったのではないかと思います。





こちらが「杜清水」。



以下、境内社を。





旧社地ではないかと考える藤森神社と当社の位置関係。



地図は上が南で下が北。