御上神社
(みかみじんじゃ)


近江国野洲郡
滋賀県野洲市三上838
(P有)

■延喜式神名帳
御上神社 名神大 月次新嘗 の比定社

■社格等
[旧社格] 官弊中社
[現在] 別表神社

■祭神
天之御影命


琵琶湖の東側、「近江富士」とも称される「御上山」(標高432m)を御神体とする社。「御上山」は「三上山、御神山、御影山」などとも称されます。その美麗な山容は琵琶湖西岸からも臨むことができます。
◎社伝によると創建は、第七代孝霊天皇六年に天之御影大神が「御上山(三上山)に降臨したとしています。山頂には奥宮が鎮座していますが、かつてはここが社(もちろん当時は社殿無し)であり、磐座(磐境)が座しています。その磐座を核とした「御上山」そのものが御神体。周辺から29個もの銅鐸が発掘されており、創祀は少なくとも孝霊天皇の御代以前からと考えられます。
◎現社殿が造営されたのは、養老二年(718年)に勅命を受けて藤原不比等が創建した時とされます。これをもって里宮であると。不比等が50歳を超えた晩年、特に周辺で主だった出来事は見当たりません。
◎天之御影神は天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)と同神とされる神。当社側もそのように解釈されています。
谷川健一氏が唱えたように、おそらくは鍛冶を行ううちに火の粉が飛んだか、熱かで目をやられ神へと昇華するということからの神名。その鍛冶師たちの守護神として仰がれた神であろうかと思います。当地で鍛冶が行われていたことは銅鐸が証明しているかと。
◎また崇神天皇の御代に、神威を畏れて(対象は不明)勅命が下され、天目一箇神の八世孫 国振立命に霊剣を造らせました(神鏡も製造)。当社社伝によるとこれは当地で造られたとしています。候補地は他にも大和国宇陀郡の八坂神社(天国の井戸)などがあります。おそらく「神威」は大物主神のことと推されるので、大神神社に比較的近い八坂神社(天国の井戸)辺りが妥当かと思いますが。
◎さらに社伝によると、「近つ淡海(近江国のこと)の御上祝がもちいつく天之御影神」とあります。この「御上祝(みかみのはふり)(「祝」は神主の意)についてはよく分からない氏族ですが、安国造と同族であろうとされます。野洲郡(やすのこほり)の地名由来となった(あるいは地名が氏族由来となったか)氏族ですが、こちらも「新撰姓氏録」に記載も無くよく分からない氏族。氏神は建部大社、近淡海之安値(ちかつあふみのやすのあたひ)とも。
◎この安国造は、日子坐王が天之御影神の娘である息長水依姫を娶って生まれた、水穂真若王を祖とする氏族。ちなみに兄は丹波道主王であり、その兄が丹後で祖父である天之御影神を祀ったのが御加宜神社であろうと思われます。
◎天之御影神は社頭案内において「忌火神、二火一水の霊神」と称えています。鍛冶に必要な火をことのほか神聖視しているようで、「二火」とは伊勢の神宮に次ぐという意味であるとか。
当社で行われる「忌火祭」は「忌火神が高天原から受伝えられた浄火を祭る祭典」で「最も神聖視し忌火郷の名称がある」(以上社頭案内より)としています。
◎水に関しては、山頂を「竜王様」とも呼んでいるらしく、水神としての神格を持つということでしょうか。息長氏はとかく「水」と関わる言い伝えが多く、息長水依姫が水神を斎祀る巫女であったのではないかと個人的には考えています(この点についてはいずれ記事にしたいと思います)
◎当社には有名な俵藤太の百足退治伝説があります。これは平安時代の藤原秀郷(貴族、武将)が「御上山」の竜神の依頼を受けて巨大百足を退治したというもの。この伝説は室町時代に「俵藤太絵巻」として完成しており、すでにその頃には「御上山」に鎮まる大神は「竜神」と考えられていたことが分かります。
「御上山」からは銅が採れたのであろうことは大量の銅鐸出土から自明ですが、いつの頃か採り尽くしたのであろうかと。当地は「野洲川」の水利を生かした良質な米の産地(「近江米」で有名)、次第に農耕の守護神「竜神」として推移したように思います。

奥宮 


*写真は2016年6月、2017年4月、2020年10月撮影のものが混在しています。


右手に見えるのが「御上山」




ご本殿は国宝、その他の建物は重要文化財指定のものであるとか。


写真中央に小さく見えるのが「御上山」。手前の建物は拝殿の側面であり、ご本殿は向かって左側に。つまりご本殿は「御上山」を背後にしていません。