(丹後国 籠神社)




◆ 椎根津彦命(倭宿禰)考 ~2



~1の記事の続きです。


当初は1記事で済まそうかと思っていたのですが、予想より長くなり文字数オーバーの心配が出てきました。

あまりに記事作成に時間がかかるため、間に合わない心配もあったりと。

ま…

ブレイクを挟むべきでしょうね。


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(丹後国 籠神社)



ここで海部氏の始祖、彦火明命について簡単に触れておきます。

天孫 天忍穂耳尊の子。天照大神の孫。
母は高皇産霊命(タカミムスビノミコト)の子である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)。
紀の一書では瓊瓊芸尊(ニニギノミコト)を弟とするものと子とするものとがあります。
彦火明命・天火明命・天照國照彦天火明尊などという表記も。

「先代旧事本紀」は饒速日命と同神としていますが、もちろん別神。活動地域も合わなければ、時代も乖離します(100年近く異なる)。かつての籠神社宮司であった海部穀定氏、光彦氏も明確に否定しておられました。

今一度、倭宿禰(椎根津彦命)までの系譜を掲げておきます(「勘注系図」より)。

* 彦火明命(始祖)━建位起命(タケイタツノミコト)━倭宿禰

* 彦火明命━彦火火出見命━建位起命━倭宿禰


さて…なぜ彦火明命のプロフィールを載せ、系譜を載せたのかというと、神武天皇(磐余彦尊)の系譜と比較するため。倭宿禰の方も天照大神からの系譜を載せておきます。

◎神武天皇系譜

天照大神

━天忍穂耳尊

━瓊瓊杵尊

━火折尊(ホオリノミコト)

━鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)

━磐余彦尊(神武天皇)


◎倭宿禰系譜

天照大神

━天忍穂耳尊

━天火明命

━(彦火火出見命)

━建位起命

━倭宿禰(椎根津彦命)


先入観を無くしてよくご覧頂きたいのです。我々は磐余彦尊が後に大和平定を成し遂げ初代天皇(この時代に「天皇」という概念は存在しない)となったため、格上のような見方をしてしまいがち。ところが神武天皇が「速吸門(はやすいのと)」で出会った時に、両者に身分的には何ら差は無いのです。神武天皇がたまたま天孫降臨した瓊瓊杵尊の血を引いているだけのこと。椎根津彦命(倭宿禰)は瓊瓊杵尊の兄の天火明命の血を引いているだけの違い。何なら椎根津彦命(倭宿禰)の方が年上の可能性が高いのです。


親戚同士が久しぶりに顔を合わせました。椎根津彦命「頑張ってるって噂を聞いとるぞ!」、神武天皇「ええ!頑張っております!」━━こんな感じだったのでは?


このように考えた時に神武天皇を大和入りさせたのは、椎根津彦命だった可能性すらあるのです。記紀神話では神武天皇は当初から大和へ向かったと記されますが、導いたのは椎根津彦命だった可能性も。「どうや!大和(倭)に来てみないか!」と。そうなのです、大和(倭)を支配していたのは椎根津彦命(倭宿禰)だったのです。

神武天皇が即位後の勢力圏は、椎根津彦命が大和盆地の中南部を広く治めたのに対し、神武天皇はごく小さな地域のみ。椎根津彦命が倭国造に任命されたのではなく、神武天皇が椎根津彦命より少しだけ領地を分けてもらった…そんな可能性もあるのです。


妄想ついでにもう一つ大胆な妄想を。

饒速日命・長髄彦神は神武東征軍に敗れ、神武天皇の大和平定が成し遂げられました。饒速日命は「大和の大王」的な見方をする一部の説がありますが、大和国内のあらゆる神社や史跡を訪ねて調べている者だからこそ分かることがあります。饒速日命の痕跡は白庭・鳥見地区(大和盆地北西部)から生駒山中にかけて密に存在します。その他の地ではやや南の平群に1箇所(石床神社 旧社地の巨大磐座)、そして磐余地区から等彌神社に数箇所ある程度。これはもう到底、「大和の大王」とは言えないレベル。白庭・鳥見地区の限られた地域の首長であったとしか思えないのです。

神武東征神話では、紀の方は東征軍と饒速日命・長髄彦神軍が「磐余」の地で壮絶な最終決戦が行われたと記されています。ところが記の方はこの地で戦ったとは記されていないのです。記の通りにここで最終決戦は行われていないのではないか、そのような考えも持っています。

ここまで見てきたように、大和盆地の中南部を広く支配していたのは椎根津彦命であり、ここに饒速日命が入り込む余地などなかったのではと。このように考えると「孔舎衛坂(くさのへのさか)」においての決戦は、神武軍vs饒速日命・長髄彦神軍ではなく、椎根津彦命vs饒速日命・長髄彦神軍という大和の覇権争いであったのかもしれません。



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(丹後国 籠神社境内の「倭宿禰像」) *現在は撮影禁止



倭宿禰(椎根津彦命)の後裔氏族を見ながら、拠点とした地を探っていきたいと思います。

◎ 倭国造(倭氏・大倭氏・大和氏)
既に記してきた通りに大和盆地の中南部を広く支配していました。市磯長尾市(イチシノナガオチ)が大和神社の初代神主になっています。
◎尾張氏
後裔氏族ではありませんが掲載しておきます。天村雲命と阿俾良依姫との間の子、天忍人命を祖とします。つまり倭宿禰(椎根津彦命)とは異母兄弟の間柄。ただし「勘注系図」には倭宿禰の別名という記述もみられます。その場合は倭宿禰の直系氏族。
◎津守氏
住吉大社の社家。天忍男命(天忍人命と同神と思われる)の裔である田裳見宿禰(タモミノスクネ)を祖とします。

◎ 久比岐国造
 越後国を本拠としていました。青海神社が2社鎮座します(いずれも未参拝)。支族に青海氏がいます。こちらは若狭国 青海神社辺りとみられます。
◎吉備海部直
備前国邑久郡(おくのこほり、岡山市・瀬戸内市など沿岸部)を拠点とした海人族。瀬戸内海はもとより朝鮮半島までの航路にも精通していたとみられます。黒日売(仁徳天皇の妾)等が知られます。
椎根津彦命が神武天皇と出会ったという「速吸門(はやすいのと)」は、紀では「豊予海峡」(大分県と愛媛県の間)、記では「明石海峡」が想定されますが、ここに拠点を持っていたことから「明石海峡」の説を採ります。
◎豊後海部氏
豊予海峡のある「佐賀関」の付け根に椎根津彦神社(未参拝)が鎮座します。
◎阿波海部氏
阿波国(徳島県)海部郡(現在も「海部郡」)を拠点とした氏族と思われますが、詳細は不明。
◎依羅物部氏
摂津国住吉郡を本拠としていました。大依羅神社の周辺が該当すると思われます。
◎海氏
(不明)

他にも調べ切れないものが多くあるようです。淡路国の大和大國魂神社もその一つ。

どうやら椎根津彦命は大和や丹後・若狭・越後だけでなく、瀬戸内全体までをも支配していたのではないかと考えます。神武東征の瀬戸内での痕跡は知り得る限り多くはありません。また記紀での記述もあっさりとしたもの。椎根津彦命に先導されてすいすいと航行できたのではないかと考えます。




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前回の記事にて「椎根津彦命(倭宿禰)=八咫烏」の可能性があると記しました。

籠神社の極秘社伝に、彦火明命は賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)というのがあります。極秘どころか一部に広まっていますが。籠神社側は公にはしていないまでも、海部穀定氏も光彦氏も否定はしていません。但しあまりに突飛なため、このことに関心を寄せる研究者も多くはないのが現状。

賀茂建角身命は八咫烏のこと。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社、記事未作成)で盛大に祀られていることで知られます。毎年5月15日に行われる「葵祭」が有名。京都三大祭の一つでもっとも大きなもの。京都で「祭」と言えば「葵祭」のことです。

この「葵祭」とは比べようもないものの、籠神社においても例大祭「葵祭」が行われています。参列したことはないものの、写真や動画を見る限りなかなか盛大なもの。起源は第4代懿徳天皇の即位四年に遡ります。上下鴨社の「葵祭」が第29代欽明天皇の御宇、567年に始まったとされるため、籠神社の方が350年ほど前から始まっていたということになるのでしょうか。もちろん当時に籠神社は創建されておらず、眞名井神社による祭事。原初は「藤祭」と称されていたものが、上下鴨社が「葵祭」としてスタートしたことにより合わせて改称したと伝わります。

彦火明命=賀茂建角身命とするなら、賀茂建角身命=八咫烏ではなく、椎根津彦命(倭宿禰)=八咫烏だったのではないでしょうか。


(上賀茂神社においての「葵祭」の前儀「流鏑馬」が行われた直後、写真は2009年5月)



もしこれが史実であるとするなら、神武天皇が椎根津彦命(倭宿禰)に「速吸門(はやすいのと)」で出会って以降の東征譚はすべて、「椎根津彦命(倭宿禰)主導で進められた」ものと解することもできようかと思います。そうすると神武東征神話は根本から覆ります。なぜ「孔舎衛坂(くさのへのさか)」の敗戦後に紀州を経由して熊野から上陸したのかということも理解できます。東征神話ではなく、椎根津彦命(倭宿禰)が勢力圏を広げるための活動であったということが。神武軍はそれに援軍しただけということだったのです。神武天皇は椎根津彦命の配下であった、そのように考えます。


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ここまで2記事にわたり長々と記してきていますが、いよいよクライマックスに。このような記事を上げる衝動を起こさせたことについてを記していきます。

これまで見てきたように、椎根津彦命(倭宿禰)は大和や丹後・若狭・越後のみならず、瀬戸内全体までをも支配していたのではないかと。一部を除く九州と出雲以外は、国内を広く支配していたと考えられるのです。それこそ始祖の彦火明命は九州から東征してきたのであろうと思われますし、彦火明命の妃は日子郎女(ヒコイラツメ、=佐手依比売=宗像の市杵島姫)。九州が直接の支配地ではなくとも大変にゆかりのある地。また籠神社が祀る本来の神は熊野の神(出雲の神)であるという説も。このように椎根津彦命(倭宿禰)は日本国を代表するほどの「大王」であったことが分かります。

なぜ記紀神話において低く記されたのか。それは代々の天皇より格の高い神がいると困るから。
古事記などは太安萬侶が編纂した書。多氏の後裔です。祖神の偉大な大王、槁根津日子のことを知らないわけがないかと思います。どのような思いで亀の甲に乗って現れた漁師などと記したのでしょうか。


(大和国山邊郡 大和神社)



ここで話の舞台は大和国山邊郡に鎮座する大和神社に移ります。既述の通り後裔の大倭氏(大和氏)が拠点とした地に鎮座する社。大倭氏から輩出された市磯長尾市(イチシノナガオチ)が初代神主となりました。

創建由緒は紀にはっきりと記されます。
━━崇神天皇六年に疫病が全国に蔓延、世の中が乱れ未曾有の大危機が訪れます。天皇はあらゆる原因を探り手を打ちました。その一つ、宮中に天津神の天照大神の御魂と国津神の大和大國魂が同床にて祀られているのは畏れ多いとして、別々に遷し祀ることとなります。
まず天照御魂は豊鍬入姫命(トヨスキアリヒメノミコト)を斎主として「倭笠縫邑(かさぬいむら)」に遷され、各地を転々としながら最終的に伊勢に鎮まりました。途中で倭姫命にバトンタッチされています。
一方、大國魂神は渟名城入姫命(ヌナキイリヒメノミコト)を斎主としましたが、髪が抜け落ちやつれてしまいリタイア。
翌崇神天皇七年に倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)が「市磯長尾市(イチシノナガオチ)をもって、日本大國魂神を祀る主とせば必ず天下平らぎなむ」と夢で神託を受けました。百襲姫は二度も同じ夢を見ますが、二度目は大水口宿禰や伊勢麻績君も同じ夢を見ました。結局、市磯長尾市によって祀られることになりました━━(大意)

「天津神」と「国津神」とのことを書き始めるとキリがないため、ここでは流していきます。崇神天皇の御代に国家存亡に関わるほどの危機が訪れました。これは現在のコロナ禍のレベルではありません。崇神天皇はもがき苦しみ、あらゆる手段を尽くそうと試みます。中でも格別に大きな手段が二つあり、うち一つが「日本大國魂神の祟り」を鎮めること。もう一つは「大物主神の祟り」を鎮めることです。

ここで留意せねばならないのは、日本大國魂神が天照大神と同格レベルで記されていること。また大物主神とも同格レベルです。明確に言うなら最高神。国家存亡の危機に救いを求めたのがこの三神ということです。神名も相応しいもの。「日本の大いなる國の魂」なのです。

もうこれ以上言わずとも、「日本大國魂神」が椎根津彦命(倭宿禰)のことであることがもうお分かり頂けると思います。後裔の市磯長尾市に奉斎させたのが何よりの証拠。これは大物主神(=事代主神)を後裔の大田田根子に奉斎させたのと同じ法則。


大和神社境内社 祖霊社
[ご祭神] 国津神珍彦命 市磯長尾市命 大和宿祢長岡命 大和神道御御霊之社氏子祖霊 戦艦大和第二艦隊戦没英霊等


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一昨年よりコロナ禍が世界を脅かしています。ニュースで流れ始めた数日後には、既に現在のような状況になることが見えました(厳密にはもっと最悪の事態を予測したのですが)。

こればかりは不思議と言わざるを得ず、もちろん霊感を持つなどとバカげたことは言いません。さらに数日後には大和神社へ、「日本大國魂神」の元へ駆け込みました。宮司さんに電話で祈祷を申し込み、慌てて御酒を手に入れ、「日本の大いなる國の魂である大神よ!御神威を発動頂き日本を救って下さい!」と。2020年3月13日のことでした。


この時から、より多くの方に「日本大國魂神」のことを知って頂きたいと思ってはいたものの、これほどのボリュームをかけて記事を起こすことはなかなか大変なことで、躊躇していました。

今回この記事を上げるに辺り、多くの文献等をあらためて目を通しました。お陰で「日本大國魂神」への理解が一層深まりました。

現在、コロナ禍の被害がこの程度で留まっているのは「日本大國魂神」の御神威の発動のお陰であると思っています。決して多いとはいえないまでも、西日本のあらゆる場所でささやかに祀られています。記事内で紹介した神社は西日本の広範囲に散らばっています。この偉大なる大神に手を合わされる方が増えることを心より願います。



《完》