賀茂御祖神社 (下鴨神社)


紀伊国愛宕郡
京都市左京区下鴨泉川町59
(有料P有)

■延喜式神名帳
賀茂御祖神社 二座 並大 月次相嘗新嘗 の比定社
[境内社 河合神社] 鴨川川合坐小社宅神社 名神大 月次相嘗新嘗 の比定社
[境内社 出雲井於神社(比良木社)] 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗 の比定社
[境内社 三井神社] 三井神社 大 月次新嘗 の比定社
※境内式内比定三社は別記事を上げます

■社格等
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社
山城国一宮
勅祭社

■祭神
玉依姫命
賀茂建角身命


全国各地のカモ社の総本社にあたるのが、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社、記事未作成)。
◎北西から流れてくる「加茂川」と、北東から流れてくる「高野川」の合流地点である「河合」の地に鎮座。合流した川は「鴨川」となり、そのまま真南へ真っ直ぐ流れていきます。
「神山(賀茂山)」に降臨した別雷神を祀ったとする賀茂別雷神社に対し、当社は「比叡山」西麓の「御蔭山」に降臨した御祖神を祀ったとしています。その「御蔭山」には境外摂社 御蔭神社(記事未作成)が鎮座。当社より北東4~5kmほどの山中。
◎創建は社記によると、崇神天皇の御宇に当社の瑞垣を修理したとしています。また第2代綏靖天皇の御宇に「御蔭祭」が始まったとしており、第21代雄略天皇の御宇に社殿造営がなされたと。5世紀中頃のこと。
「山背国風土記」逸文には、第29代欽明天皇の御宇に凶作と疫病流行が起こり、賀茂大神の祟りであるという記述があります。
ところがその逸文には、賀茂建角身命と神伊可古夜比売と玉依比売の三柱が三井社に坐すとしており、ここに当社が表されていません。まだこの頃には三井社の他、「御蔭山」や当地「糺の森」においての祭祀はあったものの創建までには至っていなかったと思われます。あるいは三井社こそが当社のことであったものか。
◎実際の創建は逸文が編纂された713年以降から、後述のカモ県主成立の733年までの間ではないかと推定しています。
井上光貞氏はその辺りの時期に賀茂別雷神社から分社したとしています。これは当時「賀茂祭」がしばしば暴動が起きるなど荒れた祭になっており、業を煮やし分社に至ったのではないかというもの。理にかなったものと思います。
◎当社を奉斎したのはカモ県主。「新撰姓氏録」に「大神朝臣と同祖 大國主神之後也 子 大田田禰古命之称大加茂都美命(一名大加茂足尼)賀茂神社斎奉 仍負姓賀茂」とあります。
◎カモ県主について留意せねばならないのが2点。一つは葛野県主(葛野主殿県主)との関わり。今一つは大和国葛木(葛城)とのカモ氏との関わり。
◎葛野県主は八咫烏、つまり当社ご祭神の賀茂建角身命の後裔とされています。これは神武東征時において皇軍を熊野から大和へ導く大功をなした八咫烏が、その褒賞により葛野県を賜ったとされるもの。また「賀茂県主同祖 神魂命孫 武津之身命之後也」(いずれも「新撰姓氏録」より)と。
おそらくはこの葛野県主らが、カモ社を奉斎するようになったことからカモ県主と名乗るようになったと思われます。カモ県主の記述が見られるのは、天平五年(733年頃)とされる「山城国愛宕郡計帳」に、「鴨県主比佐弥売」などとあるのが最初。社記では第13代成務天皇の御宇としていますが、少々信用に足らないものでしょうか。
大和国宇陀郡の八咫烏神社が創建されたのは慶雲二年(705年)。葛野県主たちがこの頃に朝廷に重用され、神話が形成されたものと思います。
◎今一つの大和国葛木(葛城)とのカモ氏との関わり。「山背国風土記」逸文には「神倭石余比古の御前に立ちまして大倭の葛木山の峯に宿りまし 彼より漸に遷りて 山代国の岡田の賀茂に至りたまひ 山代河の隨に下りまして 葛野河と賀茂河との会ふ所に至りまし」とあります。つまりまず大和国葛木山(葛城山あるいは高天山)に宿り、山城国の岡田カモに遷った後に当地に鎮まったというもの。山城国相楽郡の岡田には岡田鴨神社が当社の元社として鎮座しています。
◎ところがこの記述をまるまる信用するわけにはいかず、大和国葛木地方のカモと当地のカモとは別系統とするのが有力。大和国の方は地祇系であり、山城国葛野郡の方は天神系。
これは神武天皇が大和平定を成し遂げ、その論功行賞として初代葛木国造となった剣根命を祖神とするカモ氏。いわゆるカモ族などとも称され、葛城地方に根を張ったカモ氏とはまったく異なる別氏族。
◎当社が鎮まるのは「糺の森(ただすのもり)」。現在でも12万㎡余りという広大な神域ながら、かつては495万㎡であったとされます。縄文時代からの祭祀遺構が発見されており、その頃からの霊地であったようです。
これは冒頭に記したように、「河合」であったということ。また「比叡山」山頂が当地から見て、夏至の日に朝日が登ること、またこのラインを西に延ばすと「松尾山」(松尾大社の御神体)に当たること、これらから見て「日祀り」の聖地であったとみなせます。
◎ご祭神については玉依姫命と賀茂建角身命と見るべきなのでしょうが、大山咋神という説も。これは上記のように「比叡山」と「松尾山」を結んだライン上に鎮座するからというもの。いずれも秦氏が大山咋神を祀っています。なおカモ氏と秦氏は密に関連を持っています(→ 伏見稲荷大社境内社 御劔社の記事参照)。
例えば原初は原始的に山の神霊を祀っていたとしても、カモ県主たちが奉斎するようになってからはやはり上記二座とみるべきかと。
賀茂建角身命は上記の通りに神魂命の孫神。賀茂建角身命が神伊可古夜比売を娶り生まれたのが玉依姫命。神伊可古夜比売は丹波国出身、神野神社で祀られているのではないかとされます(現在は異なる祭神)。それ以外は不詳。
◎京都三大祭の一つでもある「葵祭」はもちろん上下カモ社のもの。この「葵祭」がもっとも古く、もっとも盛大なもの。平安中期には京の「祭」=「葵祭」であったようです。
当初は「賀茂祭」と称されており、これは創建の項で記した欽明天皇の御宇の凶作・疫病の流行を受けてのもの。馬を馳せ猪の頭を被って練り歩くとそれらが収まったので、毎年馬を馳せてお祭りするようになったと風土記逸文にあります。
◎現在は「斎王」が祭の主役の一つとなっていますが(厳密には主役ではない)、これは9世紀に入ってからのこと。弘仁元年(810年)嵯峨天皇が「薬子の乱」の際に「賀茂大神に我に利あらば、阿礼乎止賣として皇女を奉仕させる」と宣ったもので、有智子内親王が初代斎王として奉仕しました。これが「葵祭」の主役の一つとなったもの。当社境内からは「斎院御所跡」も発見されています。

◎境内社、その他関連記事





糺の森

糺の森」古代祭祀跡





一言社・二言社・三言社群

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御手洗川と井上社。