今回は物部氏が少し出てきます。
全国に根を張る物部氏ですが、但馬や播磨にも多く痕跡が見られます。また丹波や丹後にも。
それらの場所を俯瞰で把握することにより、彼らの移動ルートが見えてくるように考えています。
そのためには、もっともっとそれらを巡らねばならないのですが…。
話は天日槍へと戻ります。小見出しにあるように「耳族」というのが再登場。本書では「耳族」と「目族」が結婚して天孫族が成ったという見方をしています。「耳族」は中国南部からやって来た天照大神を奉戴する部族、「目族」は北方からやって来た高御産霊神を奉戴する部族。
ところがこの谷川健一氏による説は当ブログ内では受け入れておらず、高御産霊神は天照大神の父であるという見解を提示しています。そして「耳族」「目族」との分離はまったく想定していません。それを踏まえて進めていきます。
◎天日槍と「耳族」の結婚
先ずは天日槍から始まる系譜を見ていくことになります。
*紀の垂仁天皇三年の条
━━天日槍、但馬国の出嶋(いずし)の人太耳(フトミミ)が女(むすめ)麻多烏(マタヲ)を娶りて、但馬諸助(タヂマモロスク)を生む。諸助、但馬日楢杵(ヒナラキ)を生む。日楢杵、清彦を生む。清彦、田道間守(タヂマモリ)を生むといふ━━
*紀の垂仁天皇八十八年の条
━━(天日槍が)但馬に留まりて、其の国の前津耳(マヘツミミ)一に云はく前津見(マヘツミ)といふ。一に云はく太耳(フトミミ)といふ。が女(むすめ)、麻拕能烏(マタノヲ)を娶りて但馬諸助を生む。是(これ)清彦が祖父なり━━
*紀の垂仁天皇九十年の条
━━天皇、田道間守に命せて(みことおほせて)常世国に遣わして、非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めしむ。今、橘と謂ふは是なり━━
*記の応神天皇の段
━━是に天之日矛(天日槍)、其の妻の遁げしことを聞きて、乃ち追ひ渡り来て、難波に到らむとせし間、其の渡の神、塞へて入れざりき。故、更に還りて多遅摩国(たぢまのくに)に泊てき(はてき)。即ち其の国に留まりて、多遅摩の俣尾の女、名は前津見を娶して生める子、多遅摩母呂須久(タヂマモロスク)。此の子、多遅摩斐泥(タヂマヒネ)。此の子、多遅摩比那良岐(タヂマモヒナラキ)。此の子、多遅摩毛理(タヂマモリ)。次に多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)、次に清日子。三柱 此の清日子、当摩(たぎま)の咩斐を娶して生める子、酢鹿之諸男(スガノモロヲ)。次に妹菅竈由良度美(イモスガカマユラドミ)。故、上に云へる多遅摩比多訶、其の姪、由良度美を娶して生める子、葛城高額比売命(カヅラキノタカヌカヒメノミコト)。此は息長帯比売命の祖なり━━
記紀間で系譜の相違がみられます。
*天之日矛(天日槍)の妻が、紀では太耳(前津耳・前津耳)の娘の麻多烏、記では俣尾の娘の前津見となっており、親子が逆。
*記では母呂須久の子に、紀には見られない斐泥がいる。
*紀では清彦の子が田道間守となっているが、記では多遅摩毛理の弟が清日子となっている。
谷川健一氏は記紀間での系譜の相違よりも、天之日矛(天日槍)と「耳族」との婚姻を重視しています。上記の通りに「耳族」に対する所見は大きく異なります。谷川健一氏は金属文化をもたらした部族という見解を示していますが、これに対しては否定せずとも肯定はしていません。その可能性が高いのだろうというところまで。
◎前津耳とは
「大日本地名辞書」によると、「和名抄」がいう但馬国養父郡「糸井郷」の式内社 佐伎都比古・阿流知命神社二座(未参拝)というのは、前津耳夫妻の廟であるとしているようです。
ちなみに本書では触れられていないものの、「阿流知命」というのは、新羅国の始祖王である「閼智(アルチ)」のことではないでしょうか。
地名と同じく「糸井造」というのが「新撰姓氏録」に、「大和国 諸蕃 新羅 糸井造 三宅連同祖 新羅国人天日槍命之後也」とあります。
また但馬国城崎郡奈佐郷「宮井」に鎮座する式内社 宮井神社(未参拝)も、「前津耳族」を祀ると思われると「天日槍」(今井啓一著)はしているようです。同書では地名「宮井」も「耳井」からの転訛とみているとのこと。
先ほど「糸井造」が「新撰姓氏録」に於いて、「大和国」での記載があるとしました。これは城下郡「三宅」(現在の磯城郡三宅町)に鎮座する糸井神社にみることができます。地名は三宅連に関係するのでしょう。応神天皇妃である糸井比売が、近くの島の山古墳の被葬者ではないかとも言われます。
「糸井造」の名からは、「筑前国風土記」に登場する怡土県主(いとのあがたぬし)の祖の五十跡手(イトテ)が連想されると先に記しました。
仲哀天皇を出迎えたもので、名を聞くと、「私は高麗国(こまこく)の意呂山(おろやま)に天から降ってきた天日矛の末裔の五十跡手です」と答えたというもの。
五十跡手はというのはおそらく巫女で、高麗は新羅の誤り、「意呂山」は「蔚山(うるさん)」であろうとするのは「大日本地名辞書」。糸島郡怡土村大字高祖(たかす、現在の「前原町」)に鎮座する高磯神社(たこそじんじゃ)は、怡土県主の祖で、天日槍の妻の姫許曾神を祀るとされるのも、先の挿話と関係があるというのは過去に記した通り。
前津耳(前津見)は太耳とも記されています。出雲の神統譜に出てくる布帝耳(フテミミ)は、スサノオの五代孫で天之冬衣命(アメノフユギヌノミコト、天之葺根命)の親にあたります。「太耳=布帝耳」でしょうか。
「肥前国風土記」にも大耳という者が登場しています。かつての族長は大きな耳輪を下げて装飾品としていたから、そのように呼ばれるのではないかと過去記事に記しました。また海を越えて渡来した人びとの遥かな記憶が込められいた…ということも。
◎太耳と物部氏との関係
物部氏と「麻羅」(真浦、麻良)等の「マラ・マウラ」とが関係するであろうことは、第36回目の記事にて記しました。「播磨国風土記」には伊頭志君麻良比(イヅシノキミマラヒ)が登場し、おそらく但馬国「出石」の者でないろうと。
そして「播磨国風土記」には、但馬国「三宅」からの移住者が揖保郡の新宮町にやって来て、そこを「越部里」と言ったということを記しました。「新撰姓氏録」に「越部の大炊 天之三穂命ハ世孫 意富麻良の後なり」とあることから、但馬の三宅氏と意富麻良とのつながりが暗示されると。三宅連と糸井連はともに天日槍の後とあるので、ともに「マラ」を名乗る人びとと無縁ではなかった、物部氏に配属される鍛冶技術者との間にも関係があると考えられるとしています。
今回はここまで。
次回は天日槍の末裔たちと、物部氏との関わりについて探っていくこととなります。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。