■表記
紀 … 渟名城入姫命(ヌナキイリヒメノミコト)、渟名城稚姫命
記 … 沼名木之入日売命


■概要
崇神天皇の皇女。大和神社創建にまつわる説話の中で登場する神。
崇神天皇の御代に疫病流行で国内は有事に。天皇と同床共殿にあった天照大神と倭大国魂神を別々に遷し祀ることになりますが、倭大国魂神の奉斎を託されたのが渟名城入姫命。
記には系譜のみ、紀には3ヶ所に記されます(うち1ヶ所は系譜のみ)。

◎崇神天皇六年
即位五年に国内で疫病が流行し国民の半分以上が死亡、六年に百姓は流浪し始めた。天皇は不眠で神祇に祈った。
━━これまで天照大神・倭大国魂神の二神を大殿内(宮中)で並び祭っていた。ところがその神の勢いは凄まじく畏れ多い。共に過ごすのは安らかではない。それで天照大神を豊鋤入姫命に託して倭笠縫邑にて祭り磯堅城神籬を立てた。日本大国魂神は渟名城入姫命に託して祭らせた。すると渟名城入姫命は髪が抜け落ちやつれてしまった━━(大意)

◎垂仁天皇二十六年 (「一に云わく」として)
天照大神は神の教えの通りに伊勢国渡遇宮(度会宮)に移った。
━━この時倭大神(倭大国魂神)は穂積臣の遠祖 大水口宿禰大水口宿禰に教えて言うには、「太初の時に約束したはずである、天照大神は天原を治める、皇御孫尊(皇孫)は葦原中国の八十魂神を治める、我(倭大国魂神)は大治官(地主神のことか)を治めようとそれだけで言い終えた。ところが先代の崇神天皇は神祇を祭祀すると雖も、微細はその根源を探らず枝葉は粗く留めた。故に其の天皇の命は短き也。だから今、汝御皇孫尊(すめみま、ここでは垂仁天皇のこと)よ、先代の天皇の及ばざるを悔いて慎んで祭ると、汝の寿命は延びるであろう、また天下も太平になるであろう」と。(垂仁)天皇はそれを聞き中臣連の祖 深湯主(クガヌシ)に仰せて、倭大国魂神を誰に祀らせるかを占わせた。結果は渟名城稚姫命。そこで神地を穴磯邑(穴師邑)に定めて、大市の長岡岬に祠を設けた。ところが渟名城稚姫命の身体は痩せて弱り、祭ることができなくなった。そこで大倭直の祖 長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)に祭らせた━━(大意)

崇神天皇六年と垂仁天皇二十六年の内容は類似。同内容の説話が、時期が異なり伝わっていたものと思われます。

この内容から、倭大国魂神を奉斎するのに渟名城入姫命は適していなかったということ。崇神天皇が熟慮せず神祇祭祀を続けていたことを倭大国魂神は諭しているのに、垂仁天皇もまた占いの結果だけで判断してしまいました。

つまりは国津神を祀るのは、国津神の子孫であること。天孫族が祀ってはいけないということでした。渟名城入姫命は髪が抜け落ち、痩せてやつれてしまい…その犠牲になってしまったのでした。

ちなみに「神地を穴磯邑(穴師邑)に定めて、大市の長岡岬に祠を設けた」というのが、大和神社(旧社地)

◎推定墓は大和国山邊郡の中山大塚古墳とされます。他に能登国の能登比咩神社(ご祭神/能登比咩神・沼名木入比賣命)のご本殿背後に築かれる三基の円墳に眠るという伝承あり。同母兄弟の大入杵命(能登国造、能登臣の祖)が、沼名木入比賣命を誘いともに下向したとされています。


■系譜
◎父 … 崇神天皇
◎同母兄弟姉妹 … 大入杵命(能登国造)、八坂入彦命、十市瓊入媛命
◎主な異母兄弟姉妹 … 活目入彦五十狭芽尊(垂仁天皇)、倭彦命、豊城入彦命、豊鋤入姫命などがいます。


■祀られる神社(参拝済み社のみ)
[大和国山邊郡] 渟名城入姫神社

*その他関連社等
[大和国山邊郡] 大和神社
[大和国山邊郡] 中山大塚古墳 … 推定墓