■表記
紀 … 尾張大海媛(オワリオオアマヒメ)
記 … 意富阿麻比売(オオアマヒメ)
「先代旧事本紀」の「天孫本紀」尾張氏系譜 … 葛木高名姫命
*紀の一書の遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメメクワシヒメ)と同神か
*「海部氏系図」の大倭姫と同神か


■概要
記に記される尾張連(後の尾張宿禰)の祖。また崇神天皇の妃の一人(神)。当記事ではごく簡単な「尾張氏」考を含めて記します。

◎尾張氏は族名通りに尾張国を拠点とした氏族。かつて熱田神宮の社家を歴任していたことでも知られます。始祖は天孫 天火明命(ニニギ神の兄または父)

丹後国を拠点とした海部氏(アマベノウジ)と、始祖の天火明命から始まり系図の十数代ほどまでの重複が見られ、また「先代旧事本紀」の「天孫本紀」にも同族とあります。さまざまな資料、史跡等からみても同族というのはほぼ間違いないところ。

◎尾張氏に確固たる系図は現存せず、文章形式の「先代旧事本紀」の「天孫本紀」から読み取ったり、その他系図がみられる資料を複数採用しつつ構築していく形が取られています。
一方の海部氏は、丹後国一ノ宮 籠神社に現在まで続く社家により極秘伝として保護管理を続けてきた、「本系図」「勘注系図」(ともに国宝)を資料とすることが可能(偽書説は根強くありますが)。

◎天火明命の子 天香語山命が神武東征において丹後から熊野へ下り、神剣「布都御魂」を授けたとされます。これは天香語山命を高倉下命(タカクラジノミコト)とみなしてのものですが(異説有り)、この時に大和葛木(葛上郡)や尾張へ移動したという説も。

◎確かに天香語山命の大和葛木(葛上郡)や尾張での足跡は随所に見られます。尾張氏が最初に拠点としたとされる「高尾張邑」は大和葛木に(→ 綏靖天皇 葛城高丘宮跡の周辺とされる)。移動したことは窺えるも、高倉下命と同神とするには慎重にならざるを得ません。また「高尾張邑」を大和葛木に比定するには異論も根強くあり、こちらも慎重を要します。

実質的に尾張に基盤を築いたのは、天火明命三世孫である天忍男命の子 瀛津世襲(葛木彦)辺りからではないかと考えています。日本武尊東征に従軍した建稻種命(十二世孫)から、尾張氏と海部氏とでは系図に隔たりが見えるので、分岐はこの時からとする見方も。また父の乎止與命(十一世孫)が初代尾張国造となったと「先代旧事本紀」の「国造本紀」にはあります。

◎また物部氏との関連も見られます。初代「丹後国王」とされる由碁理命は、武諸隅命(七世孫)と同神とされます。その武諸隅命は「物部武諸隅命」と表記されることも。
尾張氏が尾張を拠点とする前は美濃方面であったとする考えもあります。そして尾張に根を張っていた物部氏と手を組んだのではないかとも。それが始祖 天火明命をも、物部氏の始祖である饒速日命と同神とする「先代旧事本紀」の記述になったなどとも考えています。

◎尾張氏を紐解く上で手掛かりとなる氏族は、他にもう二氏あると考えています。先ずは伊福部氏。「銅」及び、その技術を受け継ぎ「鉄」を扱った氏族。因幡国(宇倍神社を奉斎)や美濃国(伊富岐神社を奉斎)等、拠点が各地に見られます。おそらく尾張氏は美濃国で接点を持ったのであろうと思われます。

伊福部氏の「銅」を考える時、大いに関連付けられるのが「銅鏡」。大和国城下郡には式内大社 鏡作坐天照御魂神社が鎮座。周辺に鏡の製作集団である鏡作部が根拠地としていたらしく、鏡作系の式内社が密集します。

鏡を作る上で「銅」は必須、またそれは伊福部氏によりもたらされるもの。鏡作坐天照御魂神社のご祭神は天火明命であり、御神体は鏡。鏡は日象であり、天火明命が太陽神として捉えられるようになったと想像しています。また城下郡は子の天香語山命の痕跡が濃く残る地でも。物部氏の総氏神とされる山邊郡の石上神宮も比較的近い地に鎮座します。

尾張国の海部郡(あまのこほり)には「伊福郷」があったとされ、これは伊福部氏の拠点の一つ。現在の「あま市七宝町」に「伊福」という地名が残ります。意富阿麻比売はこの海部郡の地名による神名と「地名辞書」はしています。海人族が原住していた地と見なせそうです。

伊福部氏が美濃国で拠点としたのは西端の不破郡。中央部には各務郡があり、こちらは現在の各務原市(かかみはらし)。鏡作部の拠点の一つとされます。その間の本巣郡は物部氏が拠点とした地。上真桑に物部神社が鎮座、物部十千根命を祀りますが、武諸隅命の娘 時姫を妻としています。

◎もう一氏族は多氏。総氏神は隣接する大和国十市郡に鎮座する式内名神大社 多坐弥志理都比古神社鏡作坐天照御魂神社からは車で5分余りの近接地。祖神は神八井耳命、神武天皇皇子とされます。

尾張国東部の丹羽地区には丹羽氏と物部氏の拠点がありました。丹羽氏は多氏の分族とされます。建稻種命の妻がその丹羽氏の大荒田命の娘 玉姫。

尾張国海部郡で記したように、そちらは海人族が原住していた地。海人族で連想されるのは天武天皇(大海人皇子)。
壬申の乱で勝利した最大の要因は、美濃国安八郡の「湯沐邑」からの兵器や物資の供給であったとされます。その長が多臣品治であり多氏一族の者。大海人皇子は美濃国池田郡壬生郷で養育されたと「和名抄」にあります。

また多坐弥志理都比古神社の本来のご祭神は、倭宿禰(「海部氏本系図」は籠神社の第4代海部宮司とする)
ではないかとも考えています。

そもそも意富阿麻比売という神名、「意富」は「多」に通じる可能性もあるかと考えています。


◎これら氏族の接点とともにその間を縦横無尽に駆け巡った人物(神)がいます。それが彦坐王。記には丹波(後に丹後国が分離独立)は派遣されたとあります(紀では子の丹波道主命とする)。さらに近江から「不破の関」を越え美濃の各務郡を開拓したと伝わります(伊波乃西神社治定墓有り)。子の八瓜入日子命は隣の本巣郡を開拓。

また因幡国へも派遣され伊福部氏を伴ったと伝わっています。この時に伊福部氏は因幡国へ移った可能性を考えています。

◎尾張大海媛の事蹟を記す文献は存在しないものの、古代の尾張氏にとっては重要な位置にあったと思われます。それが記に「尾張氏の祖」と記された所以かと。

先ずは第10代崇神天皇の妃となったこと。そして4人の子が生まれたとされます(記による)。

*大入杵命(オオイリキノミコト)
能登国造の祖
*八坂入彦命
娘の八坂入媛命が景行天皇皇后、成務天皇の母となる

未曾有の疫病流行が起こった崇神天皇の御宇、天皇と同床共殿にあった天照大御神と大和大国魂神の御魂を各々遷し祀ることになり、大和大国魂神を遷したのが渟名城入姫命。
*十市瓊入姫命
神名から大和国十市郡(多坐弥志理都比古神社が鎮座)を拠点としたと思われます。

第12代景行天皇、第13代成務天皇、第15代応神天皇、第16代仁徳天皇へと続く系譜がもたらされました。つまり尾張氏が外祖父となる起点となったということに。

次に尾張と大和国葛木とを結ぶパイプ。「先代旧事本紀」の「天孫本紀」には、「亦の名 葛木高名姫命」と記されます。

また周辺を含めて様々な地域とのネットワークが見られます。
兄の武諸隅命は初代「丹後国王」の由碁理命と見られます。出雲国へ遣わされ神宝を持ち帰り、御神体として河内国石川郡の美具久留御魂神社に鎮まります。子の彦多都彦命は稲葉(因幡)国造に。


■系譜
父は建宇那比命。その兄である建田勢命が山城国久世郡水主村へ、その後大和へ移ったとあり(「勘注系図」による)、建宇那比命が丹後の長を継いだものと考えています。
母は節名草姫。



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