美具久留御魂神
(みぐくるみたまじんじゃ)
河内国石川郡
大阪府富田林市宮町3-2053
(境内に駐車可)
■延喜式神名帳
美具久留御魂神社の比定社
[境内社 利鴈神社] 利鴈神社の論社
■旧社格
郷社
■祭神
美具久留御魂大神
「宮山」と称される霊峰を信仰対象とする社。「石川」の西岸に位置し、ぽっかりと浮かび上がる「宮山」。麓は開発が進み住宅が密集しているものの、この霊峰だけは往古の神寂びた様を未だに残しています。
◎当社の創建創祀由緒には、大和朝廷が出雲国を完全支配下に治めたという歴史上非常に重要な事象に関わります。出雲国の神宝が当社の御神体となっています。
◎先ず創祀に関しては社頭案内に、
━━崇神天皇十年にこの地に五杉の巨蛇が現れ農民を悩ましたので、天皇は親しく妖蛇の巣窟を見られ「大国主神の荒御魂の荒振るなり 宜しく祀るべし」と仰せられ、祀らしめ━━
そして崇神天皇の御宇、天皇が「出雲大神の宮」に納められている神宝を見たいと言ったのが事の発端に。早速使者 武諸隅命が遣わされますが、それを管理していた出雲振根は出張中で不在、弟の飯入根から神宝を貢上させたというもの。
◎この説話にはいくつかの論点がありますが、まずご神宝が朝廷側に渡ったということは完全支配下に治められたと言えるかと思います。「崇神天皇が見たい」と言ったのはつまり、完全に支配してしまいたいと考えたということに。
そして紀の記述や当社社伝通りとするなら、ご神宝は当社に鎮まったままであるということになるのでしょうか。
◎また「出雲大神の宮」ですが、この当時に杵築大社(出雲大社)はおそらくまだ創建されていません(創祀はなされていたかと思います)。しかも古代に出雲国で最上格であった社は熊野大社。出雲国の魂そのものとも言えるようなご神宝は、しかるべきところにあったと思うのですが。
◎ご神宝は「生大刀(いくたち)」と「生弓矢」。大国主命が根之堅洲国の須佐之男神から逃げ帰る際に持ち帰ったもので(持ち逃げか)、これをもって葦原中国を平定しています。こういったご神宝は、三種神器のように三点セットとされることが多いものですが、「天詔琴」が持ち逃げする際に木に当たって鳴り響いたと記されており、二点のみご神宝となっています(参照 →【古事記神話】本文73 根堅洲國4)。
◎これより先の崇神天皇十年、当地で大蛇が現れ農民を苦しめていたので、天皇自らが視察に。これは大国主命の荒御魂であると検められました。どうやらこれが杵築大社からご神宝をという流れになっているかと思います。甚だ神話的要素が強い由緒であるかと。
◎創建に関しては、丹波国氷上郡の氷香戸辺に神懸かりして神託があったことが記されています。「玉萎鎮石(たまものしずし)出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし) 山河之水泳御魂(やまかわのみぐくるみたま)静掛甘美御神(しずかかるうましみかみ)。底宝御宝主」と。そして活目入彦命(垂仁天皇)が遣わされ、当社名が「美具久留御魂」となり相殿に四神が配されたとしています。どれがどの神を指すのか、「山河之水泳御魂」はおそらく水分神二柱かと思いますが、他は不明。
◎上記の内容に関しては古代祭祀の様を紐解く重要な記述であるため、多くの研究者がこの内容を解き明かそうと試みています。上記はWikiによる区切り方。「玉萎鎮石 出雲人祭。真種之甘美鏡 押羽振。甘美御神底宝 御宝主 山河之水泳御魂静掛 甘美御神底宝御宝主」このように区切るとずいぶんと内容が変わります。「玉を鎮め、鏡を押し羽振り」と古代の鎮魂祭祀の様子が顕に。玉と鏡をもって出雲大神を祭れということでしょうか。
◎当社の非常に重要な出色の一つは「太陽の道(北緯34度32分)」上に鎮座すること。春秋分の日(多少前後がある)に、東方の「二上山」の間から朝日が昇ります。「三輪山」から大和盆地の日祀り祭祀跡を通り「二上山」へ。もちろん「三輪山」の東は伊勢の斎宮へ。「二上山」から大鳥大社の間に当社があり、日置荘の萩原天神(日祀りを行っていた)などがあります。
◎なお境内社の利鴈神社が式内社 利鴈神社の論社。明治の合祀令によるもの。現在は元の鎮座地にも復社されています(利鴈神社)。
◎また当地がかつて「支子(きし)」(現在は喜志)と称されていたことから、「支子の宮」とも。
*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。