萩原神社 (萩原天神)


河内国丹比郡
大阪府堺市東区日置荘原寺町75-15
(境内に駐車可)

■祭神
菅原道真公
[配祀] 天穂日命
[合祀] 天照大神 豊受大神 天櫛玉命 稲倉魂命 誉田別命 市杵島姫命 素戔嗚尊 菅原道真公 武甕槌命


通称「萩原天神」、略して「萩天」などと称される社。平日夕方の参拝時にもかかわらず、参拝者が絶えないのは地元での崇敬度の高さが窺えます。道真公を祀るため、受験生の参拝が多いという理由もありそうですが。
◎当社の出色を2点。一つは土師氏の祖である道真公と天穂日命を祀ること。もう一つは合祀社の日高神社が、日置氏の祖神である天櫛玉命を祀り、「日祀り」を行っていたこと。またその旧社地は、「三輪山」山頂から「二上山」の間を結んだいわゆる「太陽の道」上に鎮座していたこと。
◎まず一つ目の土師氏ゆかりの社である点。周辺には古墳時代の窯跡が残っているようで、土師氏たちが居住していたことが分かります。当地辺りから南西10km以上、現在の堺市東区から南区にかけて、大阪狭山市、和泉市、岸和田市に渡る、須恵器や埴輪などの最大生産地帯。これらは世界遺産に認定された百舌鳥・古市古墳群へ供給されていました(→ 陶荒田神社の記事参照)。
◎社伝では創建時期を不詳としていますが、須恵器や埴輪の製作年代を鑑みると5世紀頃には何らかの祭祀が行われていたとみることができます。その社伝では「萩原山日置天神」と称したのが当社の起こりとあり、天穂日命・天櫛玉命・素戔嗚尊の三柱を祀ったと。そして天徳三年(959年)に境内社として天神(道真公)を祀ったのが天神信仰の始まりとあるようです。
◎これらは矛盾がみられ釈然としないもの。原初から天櫛玉命を祀っていたものなのかどうか。これはやはり日高神社より合祀神とされたものとみるべきなように思われます。素戔嗚尊も後の時代に勧請されてきたように思われ、原初は天穂日命一柱ではなかったのかと。そこに道真公人気で合祀、悪霊退散を願い素戔嗚尊を合祀、以上のように考えます。
◎二つ目の「日祀り」について。これは当社案内が示している通りに、日置部という部民が居住した地であり、地名にも表されています。
━━垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が太刀一千口を作った功労で十種の部民を賜ったと記され、その中の日置部はこの地に居住した一群を指しているとも考えられる━━としており、正にこのことかと。
「河内名所図絵」には「日祀ノ祠」というものが描かれているらしく、これが合祀された日高神社とされるようです。
◎日置部については、「日招き」や宮廷の「日読(かよみ)」をつかさどると柳田國男氏や折口信夫氏は唱えています。さらには「卜占暦法」を主とした「太陽祭祀」に従事した氏族とする考えも。当社社殿が真東を向いているのはこの名残かと。
◎もともと日置氏は宮内省主殿部(とのもり)の負名氏(ナオヒノウジ)の一つ。本拠地は大和国葛上郡日置郷(詳細地不明、発祥は現在の御所市「櫛羅」から「東松本」付近とされるも痕跡無し)。鴨氏の祖である阿治須岐託彦根(味耜高彦根命)の后である阿麻乃弥加都比女(天御梶日女命)を祖とする氏族。
◎元々は各地の砂鉄産出地に多く分布し、鴨氏と同様に鍛冶製鉄にも携わっていたようですが、さらに土器生産にも関わったとみられます。そして土師氏の傘下となり菅原朝臣を賜姓されています。当社は日置氏が歩んだ歴史を顕著に顕しています。
◎中世には兵火に遭い焼失するも再建。「萩原山」の山号を持つ仏教施設が当社の周りに遷されたと伝わります。また「丹南鋳物師」集団の拠点の一つでもあり、全国各地へ技術を伝えていったとのこと。
江戸時代には「日置荘大宮」と称され、境内社の多くはこの時代に勧請されたようです。

*写真は2020年1月と2022年9月撮影のものとが混在しています。


車はこちらの東側参道より進入。

南側からの参道。







こちらは旧本殿。現在の社殿は平成三年に造営されたもの。

境内社 大口神社(天照大神)、豊受神社。

境内社 百蛇大明神

境内社 稲倉魂神社等

境内社 荒神

エビスを祀る境内社

境内社 白龍大権現塚

境内社 塞の神(道祖神)