(石上神宮の楼門)



■表記
紀 … 物部十千根大連、十千根太夫命など
記 … (掲載無し)


■概要
饒速日命七世孫で、伊香色雄命(イカガシコオノミコト)の子。紀には以下の3ヶ所で登場。

◎垂仁天皇二十五年春二月の条
━━天皇は武渟川別(阿倍臣遠祖)・彦国葺(和珥臣遠祖)・大鹿嶋(中臣連遠祖)・十千根(物部連遠祖)の五人の大夫(まへつきみ)に詔して、「先代の御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)は叡智に富む聖人であられた。聡明で慎み深く志半ばで退いた。まつりごとを大切にし国を治められた。神祇を崇めて己を律し日々慎まれた。だから人民は富み天下は太平となった。今朕の世となり神祇を祀ることを怠ることがあろうか」と━━(大意)

十千根は「大夫」の一人として挙げられています。ところがこの時代にそのような官職は存在せず、紀の編纂時に相応の官職として用いられたということ。側近、重鎮といったところかと思われます。
また垂仁天皇の詔の内容からして、五大夫に神祇祭祀を行うように命じたということかと思います。

◎垂仁天皇二十六年秋八月の条
━━天皇は物部十千根大連に勅して曰く、「使者を出雲へ遣わしその国の神宝を検校させることにしたが、思うように仕事ができていない。汝が出雲に向かい宜しく検校するように」命じた。すぐに十千根大連は出雲に向かい神宝を検校、明らかにし奏上した。そして手に入れることとなった━━(大意)

やはり製作にも携わる軍事氏族の一、十千根命でないと正確な検校はできなかったということかと。直々に遣わされています。

出雲の神宝は既に、崇神天皇六十年に武諸隅命が遣わされ、管理者の出雲振根の不在中に弟の飯入根から貢上されています(参照→ 武諸隅命の記事、美具久留御魂神社の記事)。後に新調されたものということになるのでしょうか。

◎垂仁天皇八十七年春二月の条
━━五十瓊敷命は妹の大中姫に曰く、「私も歳を取った。もう(石上神宮の)神宝の管理はままならない。これからは汝が管理しなさい」と。大中姫は答えて「私は手弱女。どうやって天神庫(あめのほくら)に上ることができましょうか」と言ったところ、五十瓊敷命が言うには「いくら神庫が高いとは言っても、私が梯を造ったら問題無いだろう」と。大中姫は遂に十千根大連に神庫を治める権利を授けてしまいました。物部連らが現在に至るまで(紀の編纂時まで)石上神宮の神宝を治めているのはこれが所以である━━(大意)

五十瓊敷命は崇神天皇三十九年に太刀一千口を作ることを命じられ、それが石上神宮の「天神庫」に納められて以降、その管掌を担っていました。

石上神宮はそれまで宮中にて祀られていた神剣「布都御魂剣」を、父の伊香色雄命が遷し「石上大神」として祀ったことをもって創建されたと伝わっています。子の十千根命が管掌するというのは自然な流れであったと言えようかと思います。

◎配偶者は武諸隅命の娘である時姫。武諸隅命は丹後の海部氏の裔ですが、海部氏があたかも物部氏系であるかのように「先代旧事本紀」に記されるきっかけとなったと考えています。
「物部武諸隅命」などと表記されることも。また海部氏の遠祖 彦火明命が、物部氏の遠祖とされる饒速日命と同神であるなどとする暴挙に出ました。


■系譜
父方祖父 … 垂仁天皇
父方祖母 … 日葉酢媛命


父 … 伊香色雄命
母 … 玉手姫(山代県主長溝命の娘)

妻 … 時姫(武諸隅命の娘)
子 … 胆咋宿禰、止志奈連公、片堅石命、印岐美命、金弓連等


■祀られる神社・関連する神社等(参拝済み社のみ)

[美濃国] 伊奈波神社 … 配祀
[大和国山邊郡] 石上神宮
[大和国山邊郡] 西山古墳 … 被葬者候補