伊奈波神社


美濃国厚見郡
岐阜市伊奈波通り1-1
(P有)

■延喜式神名帳
物部神社の論社

■旧社格
国弊小社

■祭神
[配祀] 渟熨斗媛命(ヌノシヒメノミコト) 日葉酢媛命 彦多都彦命 物部十千根命



岐阜市の市街地内、「金華山」(標高329m)の南西裾部に鎮座する社。美濃国三ノ宮。
◎岐阜市は「金華山」山頂に築かれた岐阜城を中心に栄えた城下町。かつてはその場所に当社が鎮座していました。標高10mほどの平野部の中に聳え立つ山は、現在でも岐阜市のシンボル的存在。その美麗な山容と合わせ、上古は「神奈備山」として認識されていたことと思います。
◎かつては「稲葉山」と称され鎌倉時代より稲葉城が築かれていました。織田信長により攻め滅ぼされ、岐阜城として本格的に築城、「岐阜城」として生まれ変わりました。城主は斎藤道三。当社は現社地へと遷座。城の守護神として手厚い崇敬を受け祀られてきました。日本遺産、「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜の構成要素の一。
◎社伝によると創建は景行天皇十四年、武内宿禰が「稲葉山」北西の「椿原」に五十瓊敷入彦命を祀ったとしています。「椿原」とは現在の北西麓「岐阜公園」から「水手道」を少し登った辺り。露出岩盤と石製小祠、石碑のみが設けられているとのこと(現地未確認)。武内宿禰云々は後世の附会でしょうか。
五十瓊敷入彦命は勅命により剣一千口を作り石上神宮へ収蔵(参照→【書紀抄録】五十瓊敷命と太刀一千口)したとして知られる神。また勅命により各地に溜池の築造を行ったことも記紀に記されます。
◎これとは別に当地の伝承には奥州に派遣され平定。ところがその功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により朝敵に。そして伊奈波神社の地で討たれたとあるようです。
これは「美濃国第三宮因幡写本縁起」にある以下の記述が上記伝承元かと思われます。
━━陸奥の「金石」を得るため日本武尊が派遣されるも失敗に終わる。天皇は五十瓊敷命にその獲得を命ずる。「金石」を得るが逆賊の汚名を着せられ朝廷軍と対峙する。陸奥の「金石」は一夜のうちに山となる。五十瓊敷命及び一族はその山中に入って死す。五十瓊敷命は因幡大菩薩と化して「金山」に住み、人々を済度した。天皇は五十瓊敷命らの無実と、「金山」に社殿を設けて彼らを当山の峯に祀る━━(大意)
「金山」が現在の「金華山」のことのようです。この「金華山」の麓には、妃である渟熨斗媛命を祀る金神社、御子である市隼雄命を祀る橿森神社が鎮座しており、この記述の骨子は史実なのではないかと。
◎壬申の乱の際には天武天皇が当社に祈願したと伝わります。ところが紀には天武天皇が美濃国不破郡まで進軍したとあるものの、当地まで足を伸ばしたとは記されません。
その後、斎藤道三が稲葉山城を築くに当たり当社を現社地へと遷座。これは当社を見下ろすが良くないという理由から。北西麓から少々離れた南西裾部へ遷されました。
◎当社は神名帳記載の物部神社の論社とされます。これは現社地に遷座の際に元々鎮座していた物部神社(物部十千根命を祀る)を合祀したという説と、当社が元々は物部神社であったという説とがあるようです。当社が式外社である理由、または五十瓊敷入彦命を祀るのではなく物部十千根命を祀る社であったという理由は、陸奥守豊益の讒言(上述のように五十瓊敷入彦命を妬んだ)により逆賊とみなされたことくらいしか考えられません。他に論社として挙げられているのは、その物部神社の古社地とされる岩戸八幡神社、同じく古社地とされる岩戸観音寺(未参拝)。
◎当社所蔵の太刀 銘景依造が国指定の重要文化財に。石造狛犬と木造が獅子頭、「美濃国第三宮因幡写本縁起」が県指定の重要文化財に。山車四台が岐阜市指定の有形民俗文化財に、伊奈波神社祭礼に伴う岐阜祭り行事が岐阜市指定の無形民俗文化財となっています。


背後が「金華山」。