◆ 「住吉の津」 ~真住み吉し 住吉の國~




住吉大社の境外末社 浅澤社の畔に、「住吉のいわれとまちなみ」と題した案内板が設置されています。

以前は無かったと思うので、近年立てられたものでしょうか。


案内板には「摂津国風土記には…」とありますが、現存しません。「逸文」が残るのみ。

この内容は「釈日本紀」(文永元年1264年または建治元年1275年)に引用されたものから。


読み下し文を掲げておきます。

━━攝津の國の風土記に曰はく 住吉と稱ふ所以は 昔 息長足比賣の天皇の御世 住吉の大神現れ出でまして 天の下を巡り行でまして 住むべき國を覓ぎたまひき時に 沼名椋の長岡の前は今の神の宮の南の邊 是れ其の地なりに到りまして 乃ち謂りたまひしく「斯は實に住むべき國なり」とのりたまひて 遂に讚め稱へて「眞住み吉し 住吉の國」と云りたまひて 仍ち神の社を定めたまひき 今の俗 略きて 直に須美乃叡と稱ふ━━


◎「息長足比賣の天皇の御世…」とあります。
有名な部分であり、私個人的にも第15代「神功天皇」であったという前提でブログを進めています。
(飯豊天皇も含めると第16代となりますが)

神功天皇説はこの「摂津国風土記」の記述を根拠とするもの。

この記事は神功皇后が天皇であったのかどうかを探るという趣旨ではないので、ここまでで留めておきます。

◎「沼名椋の長岡」については諸説ありますが、
ここでは当地のことと解して良いかと思います。

◎「住吉」は当初「すみのえ」であったものが、いつの頃からか「すみよし」となりました。平安後期頃とも言われますが。

ただし風土記に本当に「眞住み吉し」と記されていたのであれば、奈良時代の初めには「すみよし」とも称されていたことになります。

「釈日本紀」は上記の通り鎌倉末期に編纂されたもの。著者の卜部兼方が創作したものとも思えないので、やはり奈良時代の初めにはそう呼ばれていたということに。

「すみのえ」は「墨江」「清江」「澄江」などの表記がみられます(現在は「住之江」)。
ここでは「須美乃叡」という表記。どうやら漢字を宛てただけのようです。






東西に流れる小川が「細江川(細井川)」。




万葉集「あられ打つ あられ松原 住吉(すみのえ)の 弟日姫と 見れど飽かぬかも」

「あられ松原」は現在の「霰(あられ)松原公園」が比定地。霰松原神社が鎮座し、霰松原荒神が祀られます(未参拝)。

上のスクショの中で
「天水分豊浦命神社古社地」のところに霰松原神社が鎮座しています。


弥生時代の絵図。梶無神社の宮司の許可を得て掲載します。かつて存在した「大阪歴史博物館」の閉館の際に譲り受けられたもの。住吉大社は「恩智」の真西、「上町台地」の「地」の辺りに鎮座。