[紀伊国名草郡] 玉津島神社



■表記

紀 … 衣通郎姫(ソトオシノイラツヒメ)、弟姫(オトヒメ)

記 … 衣通郎女、衣通王

軽大郎女、軽大娘皇女(カルノオオイラツメ)の別名


■概要
絶世の美女とされ、その艶色が衣を通して光り輝くということから付けられた神名。「本朝三美人」の一。また「和歌三神」の一柱ともされています。

*「本朝三美人」
衣通姫・藤原道綱の母・光明皇后
*「和歌三神」
住吉明神・衣通姫(玉津島明神)・柿本人麻呂

◎「和歌三神」と称されますが、実際に詠んだ和歌は二首のみ。取り立てて素晴らしい技巧もないもの。
これは紀伊国の玉津島神社が鎮座するところがかつて「稚の浦」と呼ばれており、それが転じて「和歌の浦」に。当社では衣通姫も祀られていて、いつしか和歌の神となってしまったようです。

◎「日本三美人」の一、小野小町は実は美女ではなかったかもしれないというのが実話。これは紀貫之が「古今和歌集」の中で、小野小町の歌が衣通姫の流であると記したことから。
つまり歌が衣通姫の流れを汲んでいるとしたものが、いつしか容姿の美しさまで流れを汲んでいるとなってしまったもの。小野小町が美女であったかどうかまでは触れていません。

◎また叔母の八田王女も美しかったようで、同様に「衣通姫」の名が付いています。
さらに彼女の美しさから「ソトオリヒメ」と名付けられた桜の品種もあります。

◎出身は大和国城上郡「忍阪(おしさか)」と推測されます。これは允恭天皇の宮が「忍阪」にあったのではないかとされ(紀伊国伊都郡の隅田八幡神社から出土した人物画像鏡による)、さらに皇后は忍阪大中姫とあり、衣通姫は忍阪大中姫の妹であると紀に記されるため。

◎紀には居住地は近江国「坂田」(現在の米原市)であると記されます。允恭天皇が寵愛し、中臣烏賊津使主(ナカトミイカツオミ)を使いに入内させようとするも衣通姫は固辞。烏賊津使主の必死の説得により入内を受け入れ、大和国高市郡の「藤原宮」に遷ることとなりました。
ところが忍阪大中姫皇后の嫉妬を買い、河内(後に和泉国として分離)「茅渟宮(ちぬのみや)に移り住むこととなりました(忍阪宮からは片道まる1日程度か)。それでも允恭天皇は遊猟にかこつけ衣通姫のもとへ通い続けたと記されます。

◎記には、允恭天皇と忍阪大中姫皇后の間の子であり、衣通姫の同母兄である軽太子が衣通姫と密通。軽太子は伊豫へ流刑となり、衣通姫もそれを追ってともに心中したとあります。

◎先ず記紀の間で系譜は異なります。紀では忍阪大中姫皇后の妹、記では允恭天皇と忍阪大中姫皇后との間の子。

◎次に紀では、忍阪大中姫皇后と衣通姫との確執があるなか、允恭天皇の懲りない様子が描かれます。ところが記では軽太子との密通から駆け落ち心中までが、いわゆる「衣通姫伝説」として描かれます。
神代は別として、こうも記紀間で系譜から事蹟に至るまで異なるのは稀有なこと。紀で表記される弟姫というのが衣通姫とは異なるのか、といったことまで疑い持ちたくなるほど。
軽太子によるクーデターでないかという説もあるほど不可解なこと。


■祀られる神社(参拝済み社のみ)
[美濃国] 伊奈波神社境内社 三神社

[山城国愛宕郡] 橋本社(賀茂別雷神社 境内社)

[山城国愛宕郡] 出雲井於神社(賀茂御祖神社 第二摂社)末社 橋本社 

[大和国城上郡] 玉津島明神 (生誕地)
[大和国高市郡] 玉津嶋神社
[和泉国] 日根神社(境内摂社 比売神社)
[和泉国] 茅渟宮舊蹟

[紀伊国名草郡] 玉津島神社