日根神社


和泉国日根郡
大阪府泉佐野市日根野631-1
(P有)

■延喜式神名帳
日根神社 鍬靫 の比定社
[境内摂社 比売神社] 比売神社 鍬 の比定社

■旧社格
府社

■祭神
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)
玉依比売命
五瀬命 稲飯命 三毛入野命 神日本磐余彦尊 億斯富使主(オシフミノオミ)


和泉国の南部、泉佐野市「日根野」に鎮座する社。和泉国と紀伊国とを境にする和泉山脈の北側裾部に位置します。また「熊野街道」(紀州街道)沿いでも。
◎当社は「和泉五社」の一。「和泉五社」とは、律令制が敷かれ、赴任した国司が自国内主要社の巡拝する順序が定められましたが、その和泉国国司巡拝のためのもの。霊亀二年(716年)という最古のものであり、制度として定められました。すべてが遷座合祀などなく現存する希有なもの。一ノ宮から順に大鳥大社泉穴師神社聖神社積川神社、当社。
◎かつては「大井関大明神」と称されていた時代もあるようです。和泉山脈を源流とする「樫井川」が平野部へと流れ出る東岸畔に鎮座。そこから取水する水路として「井川(ゆかわ)」が境内を流れます(下部に写真有り)。「大井関」とは「井川」を司る神社であったことに由来するとされます。
◎「ゆかわ」の「ゆ」について、「斎(ゆ)」の可能性を無視できません。また「湯」、つまり鉄或いは銅などの金属が溶けて流れる様を連想せずにはいられません。下部に示すように朝鮮半島からの渡来人が祀る社であるとするならば、奉斎したのは鍛冶従事者たちではないかという思いも。
◎現在は境内の下手に鎮座する境内摂社の比売神社は、当社ご本殿に向かい合う形で西隣に鎮座。「溝口大明神」と称されていたのこと。
◎「全国神社祭祀祭礼総合調査」によると、以下の4説の創建由緒が挙げられています。
*神武軍が紀伊熊野から大和に入る前、「日根野」の地で戦勝祈願をしたのが始まり。
*神功皇后が朝鮮との戦いの帰途、岡本の「船岡」に上陸(当社から10kmほど西)し、皇后に助力した神々を「溝口大明神」(比売神社)として祀ったのが始まり。
*「樫井川」流域を開発した日根造は新羅からの渡来人の子孫で、祖神の億斯富使主(オシフミノオミ)を祀ったのが始まり。
*天武天皇の御代に大鳥神社より分霊を勧請したのが始まり。
以上から、最初にこの地で「樫井川」から水を引き一部を開発した人たちが「溝口大明神」(比売神社)を祀り、次に大規模な開発を進めた日根造が「大井関大明神」を祀り、やがて「溝口大明神」を飲み込んだとしています。
◎神武東征の創祀譚について、長髄彦軍に敗北し「難波津」を発った皇軍は、嘉祥寺(泉南郡田尻町)に着きそこで矢を放つと「長滝村」(泉佐野市長滝、北西2kmほど)に落ち(御旅所となっている)、さらに矢を放つと現当社地へ落ちたと伝わっています。
◎神功皇后の三韓征伐後の創祀譚について、当社由緒にはこちらも挙げつつ、異なる伝承も掲げています。
━━仲哀天皇二年(192年)、白翁が大鳥に姿を変え日根野の空を数日にわたり飛び続け「我は鸕鷀草葺不合尊である。ここに祠を建てなさい」と仰いました。次いで女神が現れ「我は玉依姫命である。ここに共に祀りなさい」と仰いました。そこで村人が力を合わせて祠を作り、この二神をお祀りしたのが始まりであるとされています━━
◎日根造については「新撰姓氏録」に、「和泉国 諸藩 出自新羅国人億斯富使主也」とあり、「全国神社祭祀祭礼総合調査」と合致するもの。「日根神社縁起由来」という書には、「当社大明神ハ古 三韓新羅国修明正覚王一天四海之御太子ニテ…」とあるようです。修明正覚王という名は他文献等には記されず、詳細は不明。
◎天武天皇の創建譚については、当社由緒で以下を掲げています。
━━白鳳元年(673年)、神鳳が大鳥の郷(現在の堺市)の空に現れ、「我は天照大神である。この地に五社大明神を祀りなさい」と仰いました。そこで天武天皇は白鳳二年(674年)、大井関山に社殿を造営し、大鳥大社より御分霊を勧請したのが大井関大明神(日根神社)であると云われています━━
おそらく創建はこの時ではないでしょうか。
◎主祭神は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊玉依比売命の夫婦神。神武天皇の父母。これは神武東征時の創祀譚に基づくもの。
◎「神名帳」に於いては一座。上記4例の創祀創建譚のいずれを取るかにより、ご祭神は異なることになるかと思います。
当社が最初の伝承通りに神武東征途次に祭祀が行われ、それが創祀に至ったとするなら、父母神を祀るのではなく皇祖神である天照大神をご祭神として挙げるべきかと。これは天武天皇のおそらく史実とみなされる創建譚も同様。
なお摂社 比売神社では天照大神と素戔嗚尊をご祭神としています。
日根造が祖神を祀る社と捉えるのであれば、億斯富使主となります。比売神社に於いては正覚太子として祀られています。
天武天皇の御宇の創建譚を起源とするなら天照大神となるのでしょうが、或いは純朴に「井川」の水神を祀る社という考えもできそうです。
◎当社地の属していた「日根荘」は、鎌倉~戦国時代の頃に九条家領の荘園であったことが多くの資料より分かります。絵図も残されているため、当時の地理や建物の様子までが鮮明に。「日根荘遺跡」として荘園内16箇所が国史跡に指定され、当社もその一となっています。火走神社や野々宮跡(当社に合祀され、当地には石碑のみを残す)、新道出牛神、「井川」など。
◎春の例祭は「まくら祭り」と称され、鎌倉時代から始まると伝わります。幟に枕をつけて渡御するというもの。子宝を願い枕をつけたなどと云われますが、そもそも語源は「真座(まくら)」ではないかとされています。


*写真は2018年2月と2024年4月撮影のものとが混在しています。


二の鳥居、この右手に式内社 比売神社等の摂末社群が鎮座。

摂末社群

三の鳥居

こちらが境内を流れる「井川(ゆかわ)」。






ご本殿

同じくご本殿





瑞垣内 (向かって左が新道の宮)

十五社宮。元々20社あった摂末社のうち15社を合祀した社。

合祀された15社以外の摂末社群。

手前から赤之宮(丹生都比賣大神)、岡崎神社(素戔嗚尊)、野口戎神社(事代主神)、野々宮丹生神社(丹生都比賣大神)。

野々宮丹生神社と奥は式内社 比売神社





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