大屋都姫神社 (宇田森)


紀伊国名草郡
和歌山市宇田森59
(現在は東側の車止め前に停めるしか方法無し) 

■延喜式神名帳
大屋都比賣神社 名神大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
県社

■祭神
大屋都姫命
[左脇宮] 五十猛命 [右脇宮] 抓津姫命 
([配祀神社] 伊太祁曽神社 抓津姫神社)


伊太祁曽三神のうちの大屋都姫神を祀る社、紀ノ川の北岸の「宇田森」に鎮座します。
◎元々は日前神宮・國懸神宮の地で祀られていた伊太祁曽三神。垂仁天皇十六年に日前國懸大神が毛見の濱宮からその地へ遷され、伊太祁曽三神は追い出されるように「亥の森」(三生神社)へ遷座。大宝二年(702年)には三神を三所に分祀。五十猛神は伊太祁曽神社へ、大屋都姫は当社へ、抓津姫は都麻津姫神社(吉礼と平尾に二社候補地あり)または高積神社へ。なお大屋都姫は当社に鎮まる前に和銅六年(722年)に北野村古宮(御祓山、現地未確認)に一旦鎮まっていたようです。
◎これと似た経緯で、五十猛神が伊達神社へ、大屋都姫は志磨神社へ、都麻津姫は靜火神社へ分祀されたというのもあります。
大和王権は当地への支配を進めるために日前神宮・國懸神宮を創建し伊太祁曽三神を追い出しますが、名草邑の人々の抵抗は強く一向に支配が進まなかったようです。これはそもそも神武東征時に名草戸畔軍に敗戦を喫し、追い返されたという過去があったため。
ところが時代が下り、大和王権の勢力が拡大するにつれ抵抗もままならなくなった頃に、紀氏と姓を変えた名草邑の人々の中には、大和王権側に取り入れられる者も出てきます。それが紀伊国造家や船木氏など。その船木氏が奉斎した伊太祁曽三神が伊達神社志磨神社靜火神社であったのだろうと考えられます。
つまり大和王権に未だまつろわぬ紀氏が奉斎したのが伊太祁曾神社、宇田森の大屋都姫神社に、吉札の都麻津姫神社など。大和王権に取り入れられた紀氏が奉斎したのが伊達神社志磨神社靜火神社であろうと。複雑な二重構造になっていたようです。
◎現在はあまりに寂れた古社となってしまっており、かつての崇敬の厚さはどこへやら。
なお「宇田森」からは弥生時代の住居跡などが発見され、土器や銅鐸などが出土しています。

※写真は2017年2月撮影のものと2019年12月撮影のものとが混在しています。


以前は境内の中に保育園が建設されてしまっていましたが、現在は移転されました。