三生神社
(みぶじんじゃ)


紀伊国名草郡
和歌山市伊太祁曽200
(P無し、近隣は道が狭く車通行不可、伊太祁曾神社に停めて徒歩10分程度)

■祭神
五十猛命
大屋津姫命
都麻津姫命


伊太祁曾神社の旧社地とされる社。
◎原初は國懸神宮のある「秋月」に三兄弟神(うち二柱は姉妹神)が鎮座していました。ところが神武東征に勲功のあった紀氏(紀伊国造家)をこの地に住まわせることとなり、三神を遷座(立ち退き)させました。その遷座地が当社 三生神社。新しく支配者となった紀氏ですが、三神の崇敬は非常に篤く当地ではなかなか受け入れられなかったようです。業を煮やし702年についに三神の分断を図っています。五十猛神は伊太祁曾神社に、大屋津姫は「宇田森」の大屋都姫神社に、都麻津姫は「吉札」の都麻津姫神社または「平尾」」の都麻津姫神社に。以上が概ね正史には決して表されない当地の伝承。
◎ところがこれらにはまだ大和王権に対しての遠慮が含まれており、当地に残る秘伝を丹念に調べ上げ復元したのがなかひらまい氏。紀氏の祖とされ皇軍に先じて当地へ入り皇軍を先導したとされる天道根命を架空の人物とし、紀氏は先住民、つまり皇軍に勝利した「名草邑」の人々が姓を変えたものであると。ところが神武天皇が大和を平定し大和王権は次第に勢力を全国へ拡大しつつあるなか、当地支配を目論見創建したのが日前神宮・國懸神宮。ところが形の上だけ支配できた祖先神を祀る日前宮はさておき、国家権力として支配を行おうとした國懸神宮は地元の反発に遭い退散。天武天皇の時代になって初めて、強圧的に國懸神宮をもって当地支配を固めたとしています。「伊太祁曽三神」は日前神宮・國懸神宮創建時に当社へ追い出されていますが、三神の分断を図り伊太祁曾神社へ五十猛神のみ遷したのは伝承通り。
◎田畑の真ん中にあり、年に一度の秋の例祭時以外は雑草に覆われ近づくこともできない状態。その例祭は10月の亥の日。2本の柱が鳥居として設けられ、杜の中には小祠が鎮座しています。