都麻津姫神社 (平尾)


紀伊国名草郡
和歌山市平尾字若林957
(P無し、近隣に停め置きできるスペースも無し)

■延喜式神名帳
都麻津比賣命神社 名神大 月次新嘗 の論社

■祭神
都麻津姫命


伊太祁曾神社の北方300~400mほどに鎮座。寂れた集落の小高い丘陵上に、小祠がひっそりと佇んでいます。
◎当社は式内名神大社 都麻津比賣神社の論社に挙げられています。他は都麻津姫神社(吉礼)と高積神社(未参拝、「下の宮」のみ記事掲載済み)の2社。
◎かつて日前神宮・國懸神宮の地に鎮まっていた伊太祁曾三神(五十猛神・大屋津姫・都麻津姫)。当地に入植した紀氏の画策により伊太祁曾神社の近く、「亥の森」へ遷されました。これは当地の根強い伊太祁曾三神への信仰を削ぐことで、一向に進まない当地支配を強引に進めようとしたものと思われます。
ところがそれでも支配は進まず、さらに三神を分離しバラバラに遷座。これが伊太祁曾神社(伊太祁曾神社に比定)・大屋津比賣神社(大屋津姫神社に比定)・都麻津比賣神社(吉礼と当社、または高積神社)の三ヶ所。
◎一方で「紀伊國名所図絵」では「妻御前社」として表され、都麻津姫神社(吉礼)を比定。そして「平緒王子(平尾王子)」のすぐ側に描かれています。跡地は当社より東200mの地。これは描かれる位置とは異なっており、跡地の伝承が間違っているのか、遷座があったのか。
◎一方で当社を式内名神大社 都麻津比賣神社に比定する説を上げているのは「紀伊續風土記」(ただし比定しているのは高積神社)。「妻大明神社」であるとし、「紀伊國神名帳」に見える「妻比咩大神」が当社のことであると。
(※「紀伊國神名帳」は編纂時期不明、平安末~鎌倉初期、或いはかなり後世のものとする説も)
◎これは「和名抄」(938年か)の郷名を掲載する所に「妻神戸」とあるのが見え、これをもって「妻大明神社」或いは「妻比咩大神」が当社であるとしています。また都麻津姫神社(吉礼)に対しては、「紀伊國神名帳」に見える「吉禮津姫神」であると。また伊太祁曾神社の神官が当社へ出仕し御供を供えに来ていたとも。
◎他方、高積神社であるという説を上げているのも「紀伊續風土記」。日前神宮・國懸神宮と高積神社との用水を巡る争論があり、その遺された書状から読み取れるもの。そこには高積神社がかつて日前神宮・國懸神宮に鎮座していたと表されているようです。つまり紀氏の画策により追い出された社であると。これは永享四年(1432年)に起きた争論。
ただし「紀伊國名所図絵」は、式内社 高津比古神社・高津比売神社に宛てています。延喜式神名帳にこの社が掲載されている以上、この社を無視することは不可能。やはり高積神社は式内社 高津比古神社・高津比売神社ではないかと考えています。
◎上述のように「亥の森」から三神は分離させられていますが、伊太祁曾神社と宇田森の大屋津姫神社との離れた距離を考えた考えた場合、都麻津姫神社(吉礼)にしろ当社にしろ、あまりに伊太祁曾神社に近すぎるというのが腑に落ちないところ。この距離にちょうど合うのが高積神社なのですが。
◎以上古来よりあらゆる推測がなされるも結論付けられない状態ですが、一つ抜け落ちていると思われる伝承を発見しています。
地元在住の方から伺った情報として、「高積山」の北側に「妻御前社」という小祠が鎮座するというもの。現地を訪れたものの見当たらず、隣家に伺ったところ、誰も奉斎していないので2016~2017年頃に廃社にしたとのこと(過去の写真が見つかり次第UPします)。都麻津姫が祀られていたとの情報も賜っています。
◎この小祠こそが都麻津姫が鎮まっていた社ではないかと考えています。日前神宮・國懸神宮と高積神社との用水を巡る争論では、この社のことが持ち出されたのではないかと。
ところがこの社は衰退。哀れみた伊太祁曾神社の神官が近くに遷座させたのが当社ではないのかと考えます。
◎「紀伊續風土記」は、かつて境内周は二町半、荘厳であったとするものの、後世衰廃し最小の祠ばかりを遺すものとしています。これは戦国時代最中の天正の兵乱により荒廃してしまったようです。
近くに伊太祁曾神社があるため、廃社へと追い込まれることはないとは思いますが、寂寥を感じずにはいられません。