高積神社 (下の宮)


紀伊国名草郡
和歌山市禰宜1557
(境内北側に駐車できます)

■延喜式神名帳
高積比賣神社の論社
都麻都比賣神社 名神大 月次新嘗 の論社

■旧社格
村社

■祭神
都麻都比売命

大屋津比売命
[配祀] 天照皇大神 須佐男命 八王子神 大山祇神 気津別神 応神天皇 神功皇后 比賣大神


「高積山(高山)」の麓に鎮座する社。山頂には「上の宮」が鎮座しています。当社は「上の宮」に対して「下の宮」とも。そして「上の宮」の遥拝所とされています。
日前神宮・國懸神宮の地に元々鎮まっていた伊太祁曽三神(五十猛命・大屋都比売命・都麻津比売命)が、「亥の森」に遷座させられました。さらに三神が別々に祀られることとなり、五十猛命は山東の伊太祁曾神社へ、大屋都比売命は宇田森の大屋都姫神社へ、そして都麻津比売命は当地(高山)へ遷したとされています(詳細は伊太祁曾神社の記事にて)。
◎都麻津比売命が遷された先としては、吉礼の都麻津比売神社、平尾の都麻津姫神社も論社に挙げられています。
◎1433年に日前神宮・國懸神宮と和佐庄(当地)で水利権を巡る争いが起きたようです。その際に当地は当社を擁立しており、また当社は日前宮に地にあったのが山東に遷りさらに当地に遷ったと記す資料が残っているとか。これは一宮である日前神宮・國懸神宮に対抗できるほどの社であるとも捉えられます。それらをもってして「紀伊国続風土記」 は、当社が式内社 都麻津比売神社として有力であると記しています。少なくとも中世には当社であると考えられていたようです。
◎また式内社 高積比賣神社に宛てる説もあります。この場合は「上の宮」が式内社 高積比古神社に宛てられます。
◎これらとは別に地元の伝承では、九州から紀元前3000~4000年前に名草郡に人々が移住してきた、その前から当地に住んでいた先住民族が奉斎した社ではないかと。後からやって来た名草邑の人々が平地で農耕生活を営んでいたのに対し、先住民族は山で狩猟生活を営んでいたとされます。融合することはなく住み分けがなされていたようです。この説を採るなら、相容れることのなかった部族が奉斎した都麻津比売命を祀ることはあり得ないかと。高積比古神とするべきで、山の神といったところでしょうか。





五十猛命金山彦神を祀る境内社。