(宇賀部神社)


■概要
紀の神武即位前紀、東征の途次に「軍至名草邑 則誅名草戸畔者 戸畔此云妬鼙」と記されます。
これが正史など公文書に表される唯一の記述。「孔舎衛坂(くさのえのさか)」で長髄彦軍に敗れた皇軍(神武軍)は、南下し紀伊国の紀ノ川より上陸し大和入りを図ります。ここで戦ったのが名草戸畔(ナグサトベ)。当地の女首長であったとされます。そして皇軍により誅されたとしているのが紀の記述。
この時代の民俗的な観点から考えて、おそらく巫女のような存在であったのではないかと思われます。指導者といったところでしょうか。
名草戸畔の当地での人気は尋常ではなく、紀伊国名草郡(現在の和歌山市)にはこの姫神を祀る神社が密集しています。そして紀の記述とは異なる伝承が当地にはあるようです。それらの伝承を丹念に調べ真相を明らかにしようと試みたのが、なかひらまい氏でありそれは「名草戸畔」に集約されています。
その書によると、確かに名草戸畔は討たれたのであるものの皇軍を追い返したと。皇軍が紀ノ川を遡ることをせずに、険しい山々を越えて大和入りをせざるを得なくなったのは、皇軍が当地で敗戦となったからであるとしています。
名草郡を中心とした中言神社や名草神社に鎮まりますが、そのすべてが中言神社(吉原)からの分霊。墓所と伝わるのは宇賀部神社の上方。


名草戸畔ゆかりの地(参拝、見学済みのみ)



■*神名一覧