伊達神社
(いだてじんじゃ)


紀伊国名草郡
和歌山市園部1580
(P有)

■延喜式神名帳
伊達神社 名神大 の比定社

■旧社格
郷社

■祭神
五十猛命
神八井耳命


「紀三所の神」として志磨神社靜火神社とともに一連の神として祀られる社。「式内名神大社 伊達神社」の比定社。
◎創建由緒は不詳ながら、あらゆる文献から当社の歴史の手掛かりを掴むことは可能。そこからさまざまな説が推測されています。
当記事では定説に反して、志磨神社は大屋津姫(定説は市杵島姫)靜火神社は都麻津姫(定説は火之迦具土神)と、そして当社の五十猛神とで三兄弟(うち二柱は妹神)であると考えます。
◎「続日本後紀」の承和十一年(844年)に、「従五位下の志摩 伊達 靜火神に正五位を下賜した」とあり、創建はそれ以前のことであると。
◎承安四年(1174年)の古文書には、元々三所社は日前神宮・國懸神宮近くにひとまとめに鎮座していたとあるようです。
一般に日前神宮・國懸神宮が創建された際に追いやられた伊太祁曽三神は、伊太祁曾神社の旧社地 亥の森に遷座後、さらに分断されて五十猛神は伊太祁曾神社に、大屋津姫は宇田森の大屋都姫神社に、都麻津姫は吉札の都麻津姫神社(平尾の都麻津姫神社高積神社とする説有り)にそれぞれ鎮まったとされます。
◎神武東征軍と名草戸畔軍との合戦後、「名草邑」の人々は紀氏と姓を変えていきます。皇軍を撃沈させた名草戸畔軍ですが、大和を平定した大和王権の支配が当地に及ぶにつれ王権側に取り付いた紀氏が現れます。それが紀伊国造家や船木氏など。
これは当地の伝承を丹念に調べ上げたなかひらまい氏の説によるもの。おそらくそれらが奉戴したのが「紀三所の神」ではないでしょうか。伊太祁曽三神を祀る三社と「紀三所の神」を祀る三社との関係は稀薄なようです。
◎「住吉大社神代記」には、神功皇后が三韓征伐に用いた船三艘を武内宿禰に祀らせたのを「紀三所の神」の創建としています。また住吉大社の境内社である船玉神社は、「紀三所の神」の本社であるとし紀氏が祀るとしています。
◎これには紀氏と同族である船木氏が関わるとみます。船木氏はヤマト王権から大和朝廷に至るまで、造船を始め航海に至るまでを一手に担った氏族。倭姫命巡幸に於いても、船木氏の活躍無しには成し遂げ得なかったと思われます(伊勢船木氏は別氏族とする説もあるが、当ブログに於いては同族とします)
◎当社名「いだて」は五十猛命(イタケルノミコト)の別名、「イダテ神」と通ずるもの。「播磨国風土記」に、神功皇后が朝鮮半島に渡る際に、武内宿禰(出自は紀氏系)に命じて船の舳先に「伊太代神」を祀ったという記述があります。また播磨国には五十猛命を祀る射楯兵主神社(いだてひょうずじんじゃ、記事未作成)が鎮座します。
◎五十猛命は一般に、「我が国に樹木を植えて廻り、緑豊な国土を形成した神」(伊太祁曾神社による)とされます。船は木を伐り出して造られることから、「樹木の神」から「船の守護神」へと拡大解釈がなされたように思います。
那賀郡(現在の紀の川市)の三船神社では「木霊屋船神」を祀りますが、五十猛命のことであろうとも考えられます。こちらも船木氏が奉斎した社と伝わります。鎮座地は「龍門山」(標高756m)の西側麓。いわゆる「山の口」といった場所であり、船木氏はここから木を伐り出していたのではないかとも。
◎当社は「式内名神大社 伊達神社」の比定社。ところが江戸時代には水門吹上神社が比定され、一方当社は「園部神社」と称され、式外社とみなされました。後に当社こそが式内社であるという趨勢になるも、再び「神社覈録」が当社を式外社に。ところがやはり当社こそが式内社であるいう趨勢となり、現在に至っています。
◎当社に祀られるもう一柱の神八井耳神は、遷座後に合祀されたとみるのが有力。「紀伊国名所図会」には、中世以降に当地を拠点とした園部氏が、神八井耳神を合祀したとあります。
園部氏は薗部・苑部とも表記され、「新撰姓氏録」には「右京 皇別 園部 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」と記載されます。その「多朝臣」は「左京 皇別 多朝臣 出自謚神武皇子神八井耳命之後也」とあります。つまり多氏の派生氏族とみてよいのかと思います。
◎多氏は同族を含め軒並みに始祖を神八井耳命としています。ところが神八井耳命とするには異論も多く、出自等はベールに包まれたまま。
紀氏との関わりが非常に強く、近しい氏族ではないかとも考えています。そして園部氏は紀氏一派とみてよいのではないかと。そうすると中世以降に当地に拠点を移したのではなく、当初より当地を拠点とした氏族である可能性も。

*写真は2017年夏頃と2024年3月のものとが混在しています。














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