水門吹上神社
(みなとふきあげじんじゃ)


紀伊国名草郡
和歌山市小野町2-1
(P有、進入は西側から)

■祭神
御子蛭児神
大己貴神


彦五瀬命が雄叫びを上げたという「男水門(おのみなと)」の伝承地に鎮座する社。
◎神武東征の際に「生駒山」の「孔舎衛坂(くさのへさか)」で、神武天皇の長兄である彦五瀬命は重症を負います。その痛みによる苦痛で雄叫びを上げたのがこの地(神武天皇聖蹟 男水門顕彰碑)。その後に「竈山」の地で最期を迎え、葬られたとしています(竈山神社)
◎当時は政治よりも重視されていたのは祭祀。祭祀により神託を授かるのは長兄、その神託通りに実行に移す、つまり政治を行うのが末子であったとされます。その結果が悪ければ責任を問われるのは祭祀者、つまり長兄。
神話においては矢に討たれたと記されますが、敗戦責任を取って自害した可能性もあると思います。また次男と三男は熊野で起きた荒浪(海神が荒れ狂ったか)を鎮めるために入水しています。これも責任を取ったという可能性も。
この「敗戦責任」とは、孔舎衛坂での長髄彦軍に対しての敗戦と、名草戸畔軍に対しての敗戦(紀の記述では勝利したとある)
◎当社に関しては「水門神社」と「吹上神社」が合祀されたとのこと。「水門神社」の方は、紀水門に夜ごとに神光が現れていたのがある時、戎神が浜に打ち上げられたという、よくある「戎神話」によるもの。一方の「吹上神社」は南西500mほどに鎮座していたものを、天正年間に合祀したとか。
創建は1075年以前とまでしか遡ることができないようです。
◎この彦五瀬命の失命に関して、まったく同じ伝承が和泉国日根郡(現在の大阪府泉南市)男神社にもあります。当社が式外社であるのに対して、男神社は式内社。「神名帳・編纂時は男神が神話の比定地であったとも考えられます。
神武東征軍が敗戦となったのは名草郡。紀にはあたかも東征軍が勝利したかのような記述にしたものの、名草邑には神武軍に勝利し追い返したという伝承があまりにしっかり根付いていました。実際に彦五瀬命が葬られたのは名草郡の竈山神社。名草郡で失命したとするには憚りがあったのでしょうか。