三船神社 (紀の川市)


紀伊国那賀郡
和歌山県紀の川市神田101
(一の鳥居から参道を登り境内に駐車可)

■祭神
木霊屋船神
彦狭知命
[配祀] 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 三筒男命 丹生都比売命 高野御子神


「紀ノ川」の支流、「貴志川」のそのまた支流「柘榴川」から山手に入った地に鎮座する社。
◎豊鋤入日売命(=トヨスキイリヒメ)の創建と伝えられ、ご祭神は木霊屋船神。「紀氏」と「船霊」と「木」の関連を探る上で非常に重要な社かと思います。紀氏が初期大和王権と表に裏に密接に関わり、やがて活躍の場を広げていきました。おそらく当地から木が伐り出されていたと推されます。
◎トヨスキイリヒメとの関係は、伊勢の神宮が定まるまでの経緯とのもの。「倭笠縫邑」を出立した天照大神の御杖代は各地をさまよいますが、その際に大きく貢献したのは船木氏。紀氏の系統であり、造船技術に長けていたとされます。天照大神の前身は「川の神」でもあるとする説もあり、単に巡行に必要な移動手段であったというだけでもなさそうです。
◎神武東征で皇軍は名草戸畔軍との合戦においては、紀の記述に反し敗戦を喫したとされます。神武天皇は仕方なく熊野から大和入りを行い大和を平定。次第に勢力を広げていくものの、当地においては敗戦した影響から支配が進まなかったようです。
ところが時代は下り大和朝廷の支配が全国規模に広がるにつれ、紀氏と姓を変えた名草邑の人々の中には朝廷に取り入れられる者も。それが船木氏であったとされます。
◎そして五十猛神(大屋毘古神と習合した)の霊が宿る紀伊国の木を切り出し、そこに船霊を宿して造船が行われたと思われます。この「船霊(船玉)」は、航海の安全を祈ったものかと考えられています。
その紀氏の系統には武内宿禰もおり、神功皇后の三韓征伐への遠征にも大いに活躍したようです。住吉大社の境内社である船玉神社は、当社と大いに関連があるかと。当社を含めた船霊神の総本社とも言われます。もちろん伊勢国度会郡の御船神社も関連していると思います。
◎彦狭知命は紀伊忌部氏の祖。船霊を鎮める祭祀の儀式を執り行っていたということでしょうか。

*写真は2019年12月と2021年12月撮影のものとが混在しています。