木本八幡宮
(きもとはちまんぐう)


紀伊国名草郡
和歌山市西庄字宮山1
(P有、「権殿」横のPは幼稚園のもの、当社Pは最奥にあり要注意)

■旧社格
県社

■祭神
応神天皇
神功皇后
日孁大神


紀伊国の歴史を紐解く上での重要な一社。後に紀伊国造家(紀直)となる天道根命が「日像鏡(ひかたのかがみ)」(日前大神)と「日矛鏡」(國懸大神)を携え、一時留まったとされるのが当社。
◎「紀伊続風土記」には降臨の経緯が記されています。先ず降臨したのは淡路国「御原山」。そこから天道根命により紀伊国「賀太浦」(加太浦)に漂着(加太春日神社の地)、次いで葦毛の馬に乗り当地へ遷りしばらく奉斎。その後に「毛見浦」へ(濱宮)に移り、そして国造 大名草彦命の時世に最終的に日前神宮・國懸神宮に鎮まったとあります。
◎当地では「厳橿(いつかし)の木ノ本(根元)」に日前・國懸(ヒノクマ・クニカカス)のニ神が鎮められたとし、それが社名となっています。
また大名草彦命による現社地への遷座の際に、当地「木ノ本山」の土を運び築いたとしています。いずれも「木ノ本山」が霊地であると捉えていたことが分かります。
◎一方でこれとは別に、神功皇后が頓宮を営んだという伝承も。これは三韓征伐凱旋後に異母兄弟の香坂王・忍熊王が皇位継承を狙って誉田別皇子を襲おうとします。皇后と皇子は当地に避難し難を逃れたとされます。結局、皇后郡の参謀的な存在である武内宿禰らの功績によりニ王が退けられました(→【古事記神話】香坂王・忍熊王の反乱~その1~その2)
◎後に欽明天皇の御代、562年にこの頓宮跡に「芝原八幡宮」が創祀されました。社名は「しばらく」滞在したという語呂合せから。江戸時代になり「木ノ本」の社と「芝原八幡宮」が一体となり、現在の木本八幡宮がなったとされています。
*写真は2018年10月と2024年3月撮影のものとが混在しています。


向かって右に駐車場




ご本殿はほとんど見えません。板貼りの拝殿内に境内社 天満神社が鎮座。

シャッター内に若宮神社(仁徳天皇)、高良神社(高良玉垂命)、御嶽神社(金山毘古命八衢比古命・八衢比売命)が鎮座するようです。




天神社、住吉神社、日吉神社、この地方では珍しい水分社が右殿(向かって左)に鎮座します。

蛭子神社、諏訪神社




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。